中間地帯がおもしろいということを楊谷寺のところで書きましたが、奈良と大阪の間に横たわる生駒山地周辺のおもしろさもまた格別です。
生駒山地は北は石清水八幡宮が鎮座する男山、南は大和川に近い高尾山まで、およそ三十五キロにわたって南北に連なる丘陵性の山地で、大阪から奈良に向かうとき、その山並みは屏風のように目の前に立ちふさがり、大阪平野との対比を際立たせています。古代、大阪湾から上陸した人たちが、広大な平野の先に眼にした生駒の山並みを望む風景は、平野を埋めつくす建物を除けば当時も今もそう変わりはないでしょう。
生駒山地の主峰は生駒山で、古来霊山として崇められてきました。飛鳥時代には役行者ら修験者が跋扈する聖地に、奈良時代には生駒山地の山上山麓至るところに神社やお寺が造られ、一つの信仰圏を形成していきました。
たとえば主峰生駒山の山腹に宝山寺が、南の信貴山には朝護孫子寺があります。神社では往馬大社、河内国一宮の枚岡神社、大和川に近いところでは龍田大社といった具合で、谷筋にひっそりと佇む地元の人しか知らないようなものまで入れると、相当な数になります。とりわけ大阪側に神社仏閣が密集している感があり、強い興味を覚えます。ちなみにこのブログでもたびたび登場する行基も生駒の山寺に住んでいたとされ、墓所も山麓にあります。何にせよ生駒山地周辺で目にする信仰の形は実に多様で、これこそがここの一番の特徴ではないかと思っているところです。
今日は多様な信仰の一つ、生駒山の西の山麓に鎮座する石切りさんのことです。
石切りさんと書きましたが、正式には石切劔箭神社です。石切神社と言うこともありますが、この古社に対する親しみやすさと、そこに寄せられている篤い信仰心は、「石切りさん」と呼ぶことでしか言い表せないような気がしますので、私も石切りさんと書かせていただきます。
今から二十年以上前、当時仕事の関係で東大阪に拠点があった父と奈良に行く途中でお詣りに立ち寄ったのが、私と石切りさんとの最初のご縁です。その後何度かお詣りに行っていますが、神社はもちろんのこと、そこに至るまでの参道の様子も含めて、行くたびに印象が強まっていく感じがします。それは二十数年前の私と現在の私の関心がそれだけ変化しているということですが、それ以上に、この一帯を包み込むある種独特の空気ーそれは何か不思議な力で囲われ守られてきたような感じがするものーが、時代がどんどんと先に進むことで、より希少性を強め一層その特異さを際立たせている、ということではないかと思っています。
私の下手な写真ではなかなかその雰囲気をお伝えできませんが、早速参道へ。
線路に沿って三百メートルほど南へ急な坂道を下ると、「ようこそ石切さんへ」のゲートが現れます。ここが石切参道商店街の入り口。石切さんまではここから六百メートルほどですが、一歩足を踏み入れれば、そこが土産物屋が居並ぶ普通の参道商店街ではないことがすぐにわかります。
ここにも占い、あちらにも占い。祈祷、鑑定、四柱推命エトセトラ。興味本位に立ち止まって見ていると、声をかけられそうなので、写真を撮るのも遠慮がちになりますが、ちらりとのぞくと結構お客さんが入っています。生駒山の宝山寺に行ったときも、熱心に人生相談をしているご婦人を見かけましたが、ここもそうで、ガラス扉の向こうで占い師さんの話に熱心に耳を傾ける女性の姿が至るところで見られます。数十メートルの間に、一体何件の占いの店があったのか、きちんと数えていないので正確なところはわかりませんが、相当な密度であることは間違いなく、このようなところは他にないのではないでしょうか。
ここにこれほど占いや祈祷の店が密集しているのは、生駒山地がかつて修験の霊山だったことと無関係ではなさそうです。山それ自体や磐座を信仰対象とした古神道に、仏教や密教、陰陽道などが習合していったのが修験道で、言ってみれば多神教的な神仏習合の信仰ですから、多くのものを取り込む包容力があるのと同時に、そこから多くの民間信仰が派生しても不思議ではありません。そういうものが山から麓に下りてきて、土地に染みついていったという下地があったのが石切さんの周辺で、そこから現代の占いの町ができるまで、ちょっとしたきっかけがあればよかったのでしょう。きっかけというのは、バブル崩壊後の空き家の増加です。占いは小さなスペースでも営業できます。一つまた一つと増えていって、現在のような姿になったようですが、言うまでもなくそれは石切さんの存在があったからです。
石切さんの境内に進む前に、もう少し異彩を放つ参道の様子をお伝えします。
歩いているとつい占いの店に目を奪われてしまいますが、突如現れる大仏様にも驚かされます。その名も石切大仏。赤まむしドリンクなるもので知られる阪本漢方製薬の四代目、阪本昌胤氏が建立したもので、石切さんのすぐ近くにある石切大天狗大佛寺(現在は閉鎖中)という宗教法人も阪本氏によるものです。数十年前まで参道には別の漢方薬局の主人がつくった耳なりの神様なるものもあり、それなりに賑わっていたそうです。
こちらはお不動さん。熱心にお詣りする人をよく見かけます。
参道を歩いていると、占いに始まり、大仏やらお不動さんやら、もう何でもありの信仰のデパートといった感じで、最初はあっけにとられるのですが、この魑魅魍魎としたB級感こそ、石切の魅力であり本質であると思えてきます。
石切さんが近づいてくると、どこにでもあるようなお土産やさんが軒を連ねるようになります。昭和の雰囲気を残すこの風景も、今となっては貴重です。
駆け足でしたが、最初に書いた「この一帯を包み込むある種独特の空気」を感じていただけたでしょうか。
ようやく石切さんに到着です。
ここでまず眼に入るのが、お百度参りをする人の姿です。この日は少ない方ですが、多いときには数十人の人たちが一心不乱に歩いていて、その真剣な表情にこちらまで身の引き締まる思いがします。石切さんはいつからかデンボ(腫れもの)の神様として知られるようになり、病気治癒を願う人たちがこうして熱心にお百度を踏んでいるのです。現在ではすっかり現世利益に御利益がある神社になっていますが、神社の歴史は古く、代々ここで祭祀を司り現在も神主をつとめている木積氏が祖神をお祀りしたことに始まると言われています。祖神、つまり石切劔箭神社の御祭神は、饒速日尊とその子にあたる可美真手命で、この二柱は物部氏とその枝族である穂積氏の祖先とされています。石切劔箭神社の神主をつとめている木積氏は穂積氏の末裔とのことですから、木積氏が自身の祖神をお祀りした、となるのです。
石切さんの東およそ一キロほどの山麓に、石切さんの上之社があります。神社の御由緒では、神武二年に宮山に饒速日尊をお祀りしたとのことで、ここが石切さんの源ですが、おそらくさらに元を辿れば山への信仰に行き着くのではないでしょうか。
もとは物部氏の祖神をお祀りする氏神だったものが、次第に周辺地域に暮らす他の氏族たちをも取り込む産土神となり、近世になってデンボの神様の色を濃くしていった、というのが大雑把な流れかと思います。
でもここではこうも言えるのではないでしょうか。物部氏の足跡は隠されたり消されたり、あるいは自然に消滅したりしている中、石切さんではデンボの神様という現世利益をもたらす強力な磁力に姿を変え、多くの人を惹きつけることで、物部氏は生かされていると。