近江国庁跡から西に六百メートルほどの神領というところに、近江国一宮の建部大社が鎮座しています。
元は、当地の豪族建部氏の氏神でしたが、「建部大明神神縁年録写」によると、景行天皇四十六年に稲寄別王命(日本武尊と布多遅比売との間に生まれ、建部氏の祖とされています)が神崎郡建部郷千草嶽(現・東近江市五個荘伊野部町箕作山)に日本武尊を部大神 としてお祀りしたのが始まりで、天武天皇四年(六七五)建部連安麿が湖上を舟で南下し瀬田に至った際、そこが国家鎮護に相応しい土地だとの勅命を受け、社殿を建てて日本武尊をお祀りした、それが建部大社の起源とされています。
巨大な石標に圧倒されながら石鳥居をくぐり参道を進むと、立派な神門(冒頭の写真)が現れます。この門をくぐった先は神域。そこで目に入るのが、天高く聳える三本杉(写真下)です。これは天平勝宝七年(七五五)に大和国の大神神社から大己貴命を勧進し権殿に奉祀された際、一夜にして成長したと伝わります。
日本武尊を祀る正殿と大己貴命を祀る権殿が並び立ち、拝殿左右に未社(写真右下)が並んでいます。
古くから歴代朝廷や武将たちから崇敬されてきた建部大社。平安時代の末には、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をしたところその願が叶ったことから、以後武運来運の神として信仰を集めましたが、承久三年(一二二一)の承久の乱の際多くの神宝や記録などを失ってしまいました。
写真はありませんが、建部大社には平安時代後期のものとされる女神像(国の重要文化財)が三体伝わっています。そのうちの中央にお祀りされている女神像は、髪をおすべらかしにし顔はふっくら、口許を着物の袂で隠したお姿で、恥じらいを秘めたお姫様のようです。一般に神像は神秘性と威厳を備えたものが多い中、建部大社の女神像は見ていると親近感がわいてきます。
そうえいば近江国では小津神社や金勝寺にも女神像が伝わっており、いずれも柔和な優しいお姿をしています。勝手な想像ですが、そうしたお姿になる背景には、近江の柔らかな光に包まれた琵琶湖の風景が多少なりとも関係しているのではと思います。