旧東海道で本陣が残っているのは二川と草津の二カ所だけです。草津の本陣は改修の手が入っていますが江戸時代の姿がほぼ残っていることから、国の史跡に指定されています。
連載の「草津」は本陣前に辿りついたところで終わりにしましたので、ここではその続きを。
入館時間は過ぎていましたが、門は開いています。中をのぞくと、白砂を敷き詰めた道の奥に広い式台を持つ品格ある玄関。玄関広間の壁を飾る金色の柏葉模様が、薄暗い室内で光を放っています。本陣を利用する大名家の名を記した関札が見えます。せめてそこだけでも外から見させてもらおうと門をくぐると、通路脇の障子がさっと開き、中から女性が出てきました。
断られるものだと思い言い訳を探している私に、「あまり時間がないですけど、どうぞ。」とありがたい言葉。
早速中に入ると、玄関広間から畳廊下が奥へと続き、その両側には六畳から八畳ほどの広間がいくつも並んでいます。さすが宿場の本陣だけあって、先ほどの小休み本陣とはスケールが異なります。
草津本陣は建坪四六八坪、敷地面積一三〇五坪、部屋数三十九室という広大なもの。田中七左衛門が本陣職を任命された寛永十二年(一六三五)に最初の本陣が建てられた後、火災などで何度か再建されています。昭和二十四年(一九四九)に国の史跡に指定され維持管理されてきた上、平成元年(一九八九)からおよそ七年の歳月をかけて半解体修理工事が行われたので状態は良好です。
中に入るとさすが本陣と思える堂々たる風格。違い棚に、床の間、付け書院を設け、天井は漆塗りの格天井という上段の間はもちろん、向上段の間もいかにも武家好みで、皆川淇園の書で埋め尽くされた襖など遠目で見ても迫力があります。上段の間を飾っていた松村景文による雪南天図襖絵も見事。現在その襖絵は上段の間からはずされ、展示室で見ることになりますが、銀地に赤い実を付けた南天が伸びやかに描かれ、そこにふんわりと雪が積もった図柄は、派手さはないが格調高く、本陣上段の間に相応しい感じがします。
展示資料で興味深いのは、現在の宿帳とも言える大福帳です。宿泊の記録はもちろん、金銭の出納や奉公人の給金、宿泊に関するトラブルなどの記載も見えます。それらを眺めていると、徳川家茂のもとに嫁ぐため草津本陣で休憩した和宮の記録に目が留まりました。
三千人とも言われるお付きの者を従えた一行が京都を発ち、大津に二泊した後草津本陣で昼食をとったのは文久元年(一八六一)十月のことですが、準備は十ヶ月前の正月から始まっています。御座所の修理に襖や畳の張り替え、周辺道路や並木の整備と、準備は建物や周辺にまで及び、日が近づくと今度は料理の準備にも追われました。これだけの大行列なので、草津を通過するだけで四日もかかったようで、そのために一万人近い人足と五百疋の馬が動員されたといいますから、想像を超えた大行列だったことがわかります。
草津本陣に伝わる最後の大福帳には、家茂没後出家して京都に戻っていた和宮が、徳川家の呼びかけで東京に出向いた際ここに立ち寄った記録も残されています。名は静寛院宮。輿入れの時とは一転、総勢十六人という行列。その記録は、わずか数年で激変した時代を目の当たりにさせました。