これまで「東海道の祭」として何度か曳山祭を取り上げてきました。いずれも京都の祇園祭の影響を受けながら、その土地独自の色彩が加わり、行く先々で個性豊かな曳山を見るのが楽しみでしたが、今日取り上げる大津祭は豪華さにおいて最も祇園祭に似た祭に思えます。
大津祭は天孫神社の祭礼として、毎年十月上旬の爽やかな秋空の下行われます。
大津祭の始まりは江戸時代の慶長年間ごろで、旧鍛冶町の塩売治兵衛が狸のお面をかぶって踊ったところ人が集まり賑わったことから、その後屋台のようなものが登場し、寛永十五年(一六三八)ごろから現在の曳山に近いものが登場したようです。
最も古いものは寛永十二年(一六三五)の狸山で、その後次々と各町が曳山を出すようになり、およそ百四十一年の間に十四基が揃いました。
大津祭では当初曳山と共に練物と言われる仮装行列が出ていました。それが湖上交通の要衝と宿場町としての大津の発展と共に曳山に入れ替わっていったそうで、現在は曳山のみ十三基が大津の町に繰り出します。
大津祭の曳山は二輪の車輪の上に屋台部が乗り前方には轅、轅の下にも車輪が一つ付いた構造で、屋台には豪華さを競うように幕や装飾が施され、テーマに沿ったからくりが十三基すべてに乗っています。
このからくりが大津祭の大きな特徴の一つです。
日本におけるからくりは、戦国時代に西洋から機械時計の技術が入ってきた影響で作られるようになったと言われています。当初は公家や大名らの高級玩具でしたが、次第に祭礼にも取り入れられるようになり、以前投稿した知立祭の山車のように、主に名古屋周辺でからくりを載せた山車が見られるようになりました。
大津にどのようにからくりが伝わったかはっきりしたことはわかりませんが、大津という地の利と大津の経済力、進取の精神、文化水準の高さなどから、大津町人が京都はもちろん中京から積極的に取り入れていったことで根付いた文化ではないかと思います。
大津祭のからくりはとても精巧です。たとえば大津祭の発祥となった鍛冶屋町の西行桜狸山は謡曲の西行を元に作られたもので、古木から桜の精が現れ、枝の先端まで進むとそこで舞を舞い、奥にいる西行と問答をするというもの。曳山が巡行する先々で、からくりが上演されると、一斉に拍手と歓声に包まれます。
大津祭ではからくりに加え、華麗な装飾も見応えがあります。
一つは見送り幕で、特に月宮殿山と龍門滝山(写真下)に用いられているベルギーのブリュッセル製のタペストリーは、その由来の歴史と共にとても興味深いものです。
長くなるので簡単にしますが、大津祭で用いられている二枚のタペストリーは、京都の祇園祭の白楽天山で用いられているタペストリーと元は同じ一枚の「トロイア陥落図」と題された大きなタペストリーで、その一枚だけが日本にもたらされたのではなく、ホメロスの「イリアス物語」から題材を取った五枚が、おそらく十六世紀末から十七世紀初頭に日本にもたらされ、分断されて各地の曳山を飾ることになりました。
もう一つあげておきたいのは、豪華な格天井です。写真がうまく取れませんでしたが下の写真は殺生石山のもので、松村景文による四季草花図。制作当時景文は二十三歳でしたが、見事な作風です。
豪華な曳山が大津の町を練り歩くとき、現在宿場町の面影が失せてしまった大津の、かつての繁栄が目に浮かびました。
祭は歴史を伝える大切な語り部です。