庶民の間でも旅が盛んに行われるようになった江戸時代、東海道をテーマにした二つの傑作が生まれました。一つは十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、もう一つは歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次之内』です。広重の『東海道五拾三次之内』は、一般に保永堂版東海道と言われるもので、広重自身の出世作でもありました。
保永堂版東海道の制作は天保四年(一八三三)、翌年売り出されるとたちまち人気を博し、広重は風景画家としての地位を確立しました。
広重の描く五十五カ所は、江戸時代の東海道の風景ばかりか、旅風俗、庶民の暮らしといったものも織り込まれていますし、季節や時間帯もどれ一つとして同じものはなく、実に変化に富んでいます。
保永堂版が大成功を収めた後、広重は行書東海道、隷書東海道、竪絵東海道など、それぞれ違った切り口で東海道を描きました。東海道にはいくらでも調理できる材料があったということもあるでしょうが、広重という人は心底この街道が好きだったのでは…と思います。
そんな広重が最晩年を過ごしたのが、日本橋にほど近いこの場所でした。現在の東京都中央区京橋一丁目、中央通りと呼ばれている旧東海道から一歩東に入ったところで、いまはご覧のようなビルの一角です。