「やわたのはちまんさん」として親しまれている石清水八幡宮は、京都府南部の八幡市にある男山(標高約一四二メートル)に鎮座しています。
こちらの地図でおわかりのように、京都を代表する河川桂川、宇治川、木津川が男山の北で束ねられ、山の西側で淀川となって大阪湾を目指し南下しています。対岸には天王山(標高約二七〇メートル)。天王山といえば、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が天王山で激突した「天下分け目の大決戦」・山崎の合戦で知られるように、それ以前からもまたそれ以後も幾たびも戦場となっていますが、それは三川が合流するこの地が要害の地だったからです。
石清水八幡宮が鎮座する男山は、そうした歴史の舞台をすぐ眼下に望むことのできる場所にあり、京都に置かれた都の南西に位置することから、裏鬼門として朝廷から崇敬されてきました。ちなみに表鬼門は都の北東に聳える比叡山です。下の写真は男山から見た北東方向の眺め。奥に聳える高い山が比叡山、その稜線を左にたどっていった手前あたりに京都御所があります。
石清水八幡宮に信仰を寄せたのは朝廷だけではありません。御祭神である八幡大神は誉田別命(応神天皇)、比売大神(多紀理比売命、市寸島比売命、多岐津比売命の宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)の総称ですが、これは武運の神として武家から崇敬を集めた神様でもあります。平安時代中頃に八幡大神が清和源氏の氏神に定められると、その後源氏の隆盛と共に八幡信仰が全国に広まります。そうした流れを受け、石清水八幡宮は足利、今川、武田、豊臣、織田、徳川といった武将たちからの信仰を集めていきました。
境内にはいまも朝廷や武将たちから寄進された社殿や塀、灯籠などが多数残されています。冒頭の写真は国宝の楼門。その奥に舞殿・幣殿・本殿が続き、周りは回廊で囲まれているという大変立派な社殿で、至るところに各時代各武将たちの寄進や修復の跡が見られます。
たとえば二つの本殿の間に設けられた黄金の雨樋。通常本殿は一つですが、ここでは八幡造りといって同じ大きさの建物が二棟前後に連結しています。雨樋はその二つの本殿の間に作られたのですが、これは信長の寄進によるもの。有事の際にはこれを換金し事に当てるようにということのようで、信長の信仰心が感じられます。(撮影不可のため写真はありません)
またこちらは、信長の寄進による築地塀。信長塀と呼ばれます。平板のレンガと藁を混ぜた土を交互に重ねたもので、耐火性に優れているとのこと。境内の東、北、西をこの塀がコの字に囲っています。
家康も三河時代から当社に篤い信仰を寄せ塔頭の豊蔵坊を祈願所にしていたことから、将軍になってからも石清水八幡宮には将軍祈願所として格別の待遇が与えられてきました。そうした縁もあり、現在の社殿は寛永十一年(一六三四)徳川家光によるものです。
参拝者からは見えない内側に、神紋に混ざってこっそりと葵の御紋が刻まれていますが、実はその位置は八幡大神から一番よく見える真正面に当たります。したたかさと共に、石清水八幡宮に寄せる篤い信仰が感じられる話です。
御本殿を含む建物十棟と棟札三枚が国宝に、摂社五社と三つの総門が重要文化財に指定され、いまも参拝者が引きも切らず訪れる神社、隆盛は変わらず続いています。
御由緒によれば、創建は平安時代初めです。清和天皇の貞観元年(八五九)、奈良大安寺の僧で空海の弟子だった行教が、宇佐八幡宮(大分県)に籠もって祈りを捧げていたとき、「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を賜り、翌貞観二年に朝廷の命により社殿を創建したことに始まるとされていますが、これは男山に宇佐八幡宮を勧進しお祀りしたのが貞観二年だったということで、男山の信仰はもっと以前からありました。
豪壮な社殿のある山上から少し東に下った山中に、ひっそりと佇む小さなお社があります。
山からわき出る清水を御祭神としてお祀りする石清水社で、石清水八幡宮の石清水はこれに由来するとされています。
厳冬でも凍らず旱魃でも涸れないという霊泉。現在石清水八幡宮で行われているさまざまな神事の際には、早朝ここから水をくみお供えしているように、ここが信仰の源です。
八幡大神の勧請前に、ここで祭祀を行っていたのはどのような人だったのか、またそれは弥生時代だったのか、それとも古墳時代だったのか、想像したところですぐに答えは出ませんが、いまこうして古代の自然信仰の場に身を置き、古来湧き続けている泉に触れることができるというのは、なんとも感慨深いものです。
ところで、石清水社の向かいに塔頭の一つ瀧本坊跡があります。
石清水八幡宮は僧である行教によって創建されたように、仏教の色合いが濃く、境内には男山四十八坊と言われたように多くの塔頭がありましたが、明治の神仏分離により男山にあった仏教関係の建物は破却の憂き目に遭いました。この瀧本坊もしかり。これは江戸時代寛永の三筆として知られた松花堂昭乗が住職を務めた寺でした。
松花堂昭乗というと、書をはじめ和歌、絵画、茶道などに堪能な当代きっての文化人というイメージですが、真言宗の僧侶だったのです。
生まれは大坂の堺、慶長三年(一五九八)石清水八幡宮で出家、瀧本坊で修行して真言密教を学び、阿闍梨の位まで上がっています。
瀧本坊には、昵懇の仲だった小堀遠州と共に作った閑雲軒という茶室がありました。閑雲軒は床面のほとんどが崖の上に迫り出す懸け造りだったことがわかっています。これは当時としてはかなり独創的な造りで、遠州の新しい境地ではないかとも言われています。
またここからさらに下ったところには、昭乗が晩年を過ごした泉坊跡があります。
瀧本坊を引退した昭乗はここに松花堂という名の草庵を建て、静かに余生を過ごしました。松花堂昭乗の松花堂は、これに由来します。
左上が松花堂跡、右上が中露地跡、下は書院跡です。
男山四十八坊と言われただけあって、いまも山中の参道を歩いていると、あちらこちらで他の塔頭跡を目にします。建物はありませんが石垣が残っているところもあり、山全体が神仏習合の聖地だった当時の様子が垣間見えますが、同時にそれは明治の廃仏毀釈の容赦ない猛攻の跡でもあり、やるせない気持ちもなります。
話の流れから、山を下る形でのご紹介になりましたが、山麓には現在頓宮と高良神社がひっそりと佇んでいます。
かつては高良神社に隣接して極楽寺もあり、いずれも壮大な社殿、伽藍だったようです。山麓の寺社があまりにも立派だったので、かつてお詣りに訪れた仁和寺の僧が、そこが石清水八幡宮の中心と勘違いして、山に登らず帰ってしまったという話が『徒然草』に記されています。兼好法師が書きたかったのは、何事にも案内が必要ということでしたが、その話の舞台に選ばれるほど石清水八幡宮は山上から麓まで壮大な聖空間をなしていたことがわかります。
山上へは一の鳥居から上り坂の表参道をゆっくり歩いて二十分ほど。ケーブルで山上まで行くこともできますが、男山全体が信仰の場だったことを肌で感じるには徒歩に限ります。