寛永の三筆の一人として知られる松花堂昭乗(他は本阿弥光悦と近衛信伊)。書ばかりか絵画や茶道、和歌にも堪能な当代きっての文化人ですが、慶長三年(一五九八)石清水八幡宮で真言密教を学び、後に阿闍梨の位を得た社僧でもありました。
石清水八幡宮は神仏習合の神社だったので、男山の山中には多くの塔頭がありました。松花堂昭乗が就職をつとめたのは塔頭の一つ瀧本坊で、現在男山にはその跡が残っています。
瀧本坊跡については、こちらの石清水八幡宮の記事をご覧ください。
先の記事にも書きましたように、松花堂昭乗は晩年瀧本坊を甥の乗淳に譲り、自身は別の塔頭泉坊内に建てた草庵松花堂に隠棲しました。松花堂昭乗の名はそれに由来します。
男山にかつてあった塔頭は、明治の神仏分離ですべて取り払われ、古物商らに引き取られていきました。松花堂昭乗ゆかりの書院や草庵松花堂もしかりで、幾度か持ち主が変わりその都度移築された後、明治二十四年(一八九一)井上忠継に買い取られています。井上忠継は明治三十年(一八九七)にそのための土地を購入、息子の西村芳次郎と今中伊兵衛が中心になって庭園を整備し、ようやく現在地に落ち着きました。
その場所は、男山の南約一、五キロほどの八幡市女郎花で、現在は美術館と庭園からなる松花堂公園になっています。
公園内にある松花堂庭園は内園と外園からなり、松花堂や書院が移築されているのは内園です。内園と内園に通じる通路が国の名勝に指定されています。
こちらの門をくぐると右に書院があります。車寄せ(玄関)部分は伏見城の遺構と伝わります。
左下は庭から見た書院外観、右下は次の間です。小早川秀秋の寄進によるものと伝わり、桃山から江戸時代初期の様式が保たれています。
またこちらは主賓の間。主室は九畳で奥に二畳の上段の間があります。違い棚も見え、格調高いしつらえです。
そして冒頭の写真とこちらが草庵の松花堂です。
入り口の土間には竈、にじり口を入った仏壇の裏には水屋があります。竈で湯を沸かし、お茶を点てて仏に供え、客をもてなす。すべてをそぎ落とし、侘茶の境地に至った昭乗の理想を体現した茶室です。
竹網代張りの天井には鮮やかな日輪と鳳凰が描かれています。元々これは狩野永徳の筆によりましたが、雨漏りで腐敗したようで、現在の絵は当地に移築後、土佐光武によって模写されたものです。
大正時代になると京都や大阪から文化人、学者などが松花堂に招かれ、茶会が開かれました。文化サロンとして受け継がれている姿を見て、彼岸の松花堂昭乗は喜んだのではないでしょうか。
ちなみに、吉兆の創業者湯木貞一も松花堂での茶会に招かれた一人。松花堂弁当はその茶会がきっかけで生まれたものです。湯木氏はとある部屋の片隅に置いてあった四つ切りの箱に目を留めます。それは元々農家の種入れだった器を松花堂昭乗が気に入って物入れに使っていたものでしたが、湯木氏はそれを料理の器にしてはどうかと思いついたのです。そのうちの一つ譲り受け、工夫を重ねて茶会の席で用いるのにちょうどよい大きさのものを考案、好評を博したことから次第に広まったそうです。
ところで、松花堂の脇にこのような石碑が立っています。読みにくいかもしれませんが、そこには「明治三拾稔十二月九日之日古剣鏡出現之地」と刻まれています。
内園を歩いていると、小高い山があることに気づきます。庭ですから築山のはずですが、よく見ると上に「東車塚古墳」と刻まれた石碑が立っています。
実はここは四世紀末から五世紀前半ごろの前方後円墳が築かれた場所だったのですが、それを知らずに土地を購入、松花堂を移築するため地ならしをしていたところ、鏡や剣が見つかったということなのです。
松花堂庭園の西には東高野街道が南北に通っていますが、その道を挟んだ西には西車塚古墳があります。西車塚古墳からも鏡や石の合子、勾玉など多数の副葬品が出土しています。明治時代この古墳の上に男山にあった八角堂が移築され、その際古墳はかなり壊されてしまいましたが、西車塚古墳は全長一二〇メートル、後円部径六〇メートルと八幡市最大の前方後円墳で、副葬品の内容からかなりの有力者であり祭祀を司る立場の人物が被葬者だったのではと考えられています。
ちなみに東車塚古墳の出土品の中には、弥生時代後期のものと思われる鏡もあることから、こちらはもしかすると西車塚古墳より少し古いかもしれませんが、いずれの古墳の被葬者も、弥生時代から古墳時代にかけて当地をとりまとめていた首長のものでしょう。
図らずも東西の車塚古墳は、男山山中にあった建物の移転先に選ばれることになりましたが、そういえば男山には古来清水をお祀りする石清水社があり、古代祭祀の場、男山の信仰の源が残っています。もしかするとそこで水の祭祀を行っていたのは、東西の車塚古墳に眠る首長だったかもしれません。