駿府城公園の北西約六百メートルのところに、賤機山という標高一七二メートルの低山があります。賤機山は賤ヶ丘とも呼ばれ、それが静岡という地名の由来になったようです。真富士山塊から竜爪山塊に続く山並みが南に向かって半島状に突きだしているのが、地形図をご覧いただくとよくわかると思います。その先端にある端山が賤機山で、ここは古来山の神が住まう聖地でした。
静岡浅間神社はそうした賤機山の麓に鎮座する浅間神社、神部神社、大歳御祖神社三社の総称で、徳川家康の入府以来駿河浅間として崇敬され、三代家光の時代に日光東照宮に並ぶ社殿が建設されると東海道屈指の神社として名をとどろかせました。
賤機山には古代から徳川時代までの信仰の足跡が残っています。
まずは信仰の原点ともいえる、賤機山山上に向かいます。
緑に覆われた百段の石段を上がっていった先、山上にあるのが麓山神社です。御祭神は大山祇命で、日本武尊も配祀されていますが、大山祇命は麓の浅間神社の主祭神・木之花咲耶姫命の父にあたる神様ですから、麓山神社の祭神が大山祇命となったのは、浅間神社が当地に勧進された時代以後ではないでしょうか。それはともかく、賤機山には古くから山の神の信仰があり、それが麓山神社に移行していったのかと思います。
この山が聖地であったことを示すもう一つの形跡、それがこちらの賤機山古墳です。
山の南斜面を利用して造られたこの古墳は、直径約三十二メートル、高さ約七メートルの円墳で、横穴式石室に家形石棺が置かれています。
造営は古墳時代後期の六世紀後半。周辺から金銅製の冠帽金具、土師器、須恵器、馬具などが多数出土したそうで、このあたりの首長級の奥津城だったのではとのことです。
現在賤機山の西に安倍川が流れていますが、太古の昔は現在のようにすっきりとした流れではなく、安倍川や支流の藁科川の一部が賤機山近くまで流れ込んでいたとも言われています。被葬者はそうした水の流れを眼下に見下ろす高台に埋葬されました。
では山を下り、静岡浅間神社へ。
はじめに触れたように、静岡浅間神社は浅間神社、神部神社、大歳御祖神社三社の総称です。
浅間神社は延喜元年(九〇一)醍醐天皇の勅願により、富士宮の富士山本宮浅間大社より勧進されたもので、木之花咲耶姫命を主祭神としてお祀りしています。(富士山本宮浅間大社のことは当ブログでも簡単ですが触れましたので、よろしければこちらをご覧ください。)
神部神社は第十代崇神天皇の時代の創建と伝わり、大己貴命を主祭神としてお祀りしています。
大歳御祖神社は第十五代応神天皇の時代の創建と伝わり、大歳御祖命をお祀りしています。
楼門(写真左下)をくぐると、手前に舞殿、その後ろに立川流最大の傑作とされる壮大な楼閣式浅間造の大拝殿(写真右下)が現れます。
この大拝殿は神部神社と浅間神社両神社の拝殿で、さらにその後ろには比翼三間社流造りの本殿があります。本殿は立ち入り禁止のため写真はありませんが、これも見事なものです。
浅間神社と神部神社は周囲を回廊で囲われ、広大な社域の中でも特別な場所のように感じられます。
もう一つの大歳御祖神社はというと、この神社は先の二社から少し離れた、古墳の南の山麓に鎮座しています。
古代の市というと、海拓榴市や軽市(現在の奈良県)が有名です。いずれも交通の要衝にあり、多くの人や物の交流の場となりましたが、このあたりも安倍川によって山間部と結ばれた土地です。古代安倍にも市があったようで、大歳御祖神社の御祭神大歳御祖命は、その市の守護神と言われています。大歳御祖神社が市の守護神としてこの地にお祀りされるようになったのだとしたら、先に取り上げた浅間神社と神部神社よりもこの地での祭祀は古いかもしれません。
いまはこれ以上踏み込むことができませんが、古代の山の信仰や市の歴史などがここに集積し、やがて富士山信仰が加わったところに、江戸時代徳川の力で壮大な社殿が整備されたということかと現時点では思います。
静岡浅間神社にあるほとんどの社殿が国の重要文化財の指定を受け、資料館には国宝を含む多くの文化財が伝えられていますが、それも徳川の力によるもの。圧巻ですが、壮麗な社殿に圧倒されるだけではもったいない。むしろここのすばらしさ、面白さは、古代からの歴史が重なる様子が各社の背後に見え隠れしているところにあるように思います。