前回投稿した藤森神社は、中座に神功皇后伝説に関係する御祭神をお祀りしていますが、藤森神社から南に二キロ弱のところにも神功皇后を主祭神としてお祀りしている神社があります。「ごこうぐうさん」と呼ばれ親しまれている御香宮神社です。
神功皇后は記紀において仲哀天皇の妻、応神天皇の生母として記されています。仲哀天皇の突然の死により懐妊中であったにもかかわらず自ら朝鮮半島に出陣し、帰国後筑紫で応神天皇を出産したという伝承で知られ、後世武人たちから応神天皇と共に崇敬の対象とされてきました。近世には帝国主義や軍国主義に利用され、戦後突如としてその存在を否定されその名を口にするのも憚れるような時もありましたが、神功皇后にまつわる伝承地は北九州を中心に数多く残されており、神功皇后に対する信仰が脈々と受け継がれてきたことを感じずにはいられません。七月に入り京都では祇園祭が始まりました。祇園祭で各鉾町が出す山鉾のうち船鉾、大船鉾、占出山が神功皇后伝説を表しており、祭の間は神功皇后の出征が堂々と語られます。祇園祭の山鉾は神話や物語、言い伝えをテーマにしているものが多いので、神功皇后伝説もその一つということですが、三十四のうち三つの山鉾が神功皇后を扱っているというのは、山鉾が現在見るような豪華な懸想品で飾られるようになった室町時代に町人たちの間でも神功皇后の人気が高かったということでしょう。神功皇后の実在性については、多くの伝承地を持つ九州北部ではそれを肯定する声が多いようですが、直木孝次郎氏は「神功皇后伝説の成立」で、四世紀末から五世紀初めにかけての史実とは合致しない点が多く、六世紀以降の推古天皇以後の史実と重なるところがあるので、史実に朝廷内の思惑を重ね、推古、斉明、持統の三女帝をモデルにして七世紀以降に構想されたのが神功皇后伝説ではないかと述べられています。六世紀、百済の滅亡により、倭国は新羅に対する報復の思いを強めています。その際新羅出征の士気を高める必要があって、物語が作られていったということで、記紀の読み方とらえ方を教えていただく思いがします。神功皇后のことは素人に太刀打ちできるものではありませんが、いま全国至るところに根を張っている八幡信仰や住吉信仰、稲荷信仰の源を探ることにも繋がっていきそうですので、少しずつ小さな扉を開けていけたらと思っています。
さてその神功皇后をお祀りする御香宮神社ですが、『延喜式神名帳』山城国紀伊郡の御諸神社が比定されており、当初は現在地よりもう少し東にあったようです。御諸は神さまがいらっしゃる場所を意味する御室(御森)に由来します。初めは現在とは性格の異なる神々をお祀りしていたのでしょう。伏見にはいまも桃山丘陵からの伏流水が豊富に湧き出ています。伏見が有名な酒所になったのもそのためですが、古来この地を潤す水に対する自然信仰が起源となり、そこに後から神功皇后の信仰が入っていったということなのかもしれません。
御諸神社から御香宮神社になったことについてはいくつか説があります。貞観四年(八六二)境内から湧き出た清水を病人が飲んだところたちまち癒えたことから、社殿を建ててお祀りし、清和天皇から御香宮の名を賜ったとの言い伝えが一つ。他方で、御香宮の香は筑紫国の香椎宮から御祭神を勧請したことに由来するという説もあります。香椎宮は熊襲征伐のため九州に趣いた仲哀天皇と神功皇后が仮宮を置いた場所で、仲哀天皇は新羅討伐の神託を信じなかったために急死し、代わりに神功皇后が新羅に出征したとされています。『香椎宮編年記』では神功皇后の神託により神亀元年(七二四)に廟として創建されたとのことで、かつては香椎廟宮と呼ばれていました。ちなみに、九州豊前国の宇佐から男山に八幡神が勧進され石清水八幡宮が創建されたのは、貞観元年(八五九)と伝わります。御香宮神社に清水が湧き社殿を建てたと伝わるのが貞観四年で、ほぼ同じ頃です。石清水八幡宮創建が御香宮神社に何か影響をもたらした可能性を考えたくなります。神功皇后と応神天皇の信仰が、宇佐の八幡神と習合し、応神八幡信仰として勢いを増して広まったのが、現在見られる八幡様です。信仰の拡がりの裏には、その神を奉じた人の存在があります。いまは触れませんが、そこまで思いを至らせると、古代の人の流れや国の成り立ちが浮かび上がってくるようです。
ちなみに、いまも本殿前の井戸から御香水が湧いています。社務所でペットボトルを購入しお水を汲んで帰りましたが、この御香水でいれたお茶はまろやかでした。(飲み水用の汲み場が別にあります)
伏見城大手門に向かって、神社の南側を東西に走るのが大手筋通りです。御香宮神社の朱色の大鳥居はその大手筋通りに立っています。
元寇の際には後宇多天皇が供物を奉納して祈願したり、天正年間には秀吉が太刀を奉納したりと、御香宮神社は武神として長らく崇敬されてきました。秀吉は伏見城築城の際に鬼門の守護神とするため、神社を城の北東に移したこともあります。それだけ当社への信仰が篤かったということなのでしょう。現在地に神社を遷し社殿を整備したのは、家康とその子孫たちです。現在見られる社殿も江戸時代に徳川家の寄進によるもので、いずれも豪壮で華やかです。
朱色の鳥居をくぐり石垣に沿って進むと重厚な表門が現れます。
この表門は伏見城の大手門だったもので、元和八年(一六二二)水戸藩祖徳川頼房(家康の十一男)により寄進されています。三間一戸、切妻造り、本瓦葺きの門は、幅九メートル、高さ八メートルほど。堂々と風格がありますが、とくに目を奪われるのは、正面の手の込んだ蟇股です。中国の二十四孝(孝行の優れた二十四人を扱った物語)が彫刻されており、伏見城にあった頃は極彩色に彩られていたようです。国の重要文化財に指定されています。
表門をくぐると石の鳥居があり、拝殿に向かって参道が延びています。現在の石鳥居は明和四年(一七六七)のものですが、石鳥居は最初は紀州徳川家初代の頼宣(家康の十男)により萬治二年(一六五九)境内入り口の大手筋に奉納されたとのこと。その鳥居が地震で倒壊したため、現在のものが建てられています。表門をくぐった右にかつての鳥居を支えていた基礎石が残されていました。
参道を進むと見えてくるのが極彩色の唐破風を持つ拝殿です。寛永二年(一六二五)徳川頼宣の寄進によるもので、桁行七間、梁行き三間、入母屋造りの割拝殿になっています。
正面の唐破風は向かって右が鯉の滝のぼり、左が仙人が鯉にまたがり滝を昇っていく光景で、手の込んだ彫刻と鮮やかな色彩が見事です。この拝殿は伏見城の御車寄を拝領したものと伝わります。
割拝殿からさらに奥に進むと本殿があります。
こちらが本殿。ここにお祀りされているのは主祭神神功皇后、相殿神として応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇、宇倍大明神(武内宿禰命)、河上大明神(神功皇后の妹 與止日女命)、高良大明神、菟道稚郎子尊(応神天皇皇子)、白菊大明神、瀧祭神の九柱です。
本殿は慶長十年(一六〇五)、徳川家康の命により建立されたもので、建物全体が極彩色に彩られています。冒頭の写真は正面から左に回り込んだところから撮ったものですが、建物裏側にも華やかな絵が描かれています。
このように、現存する中心的な建物が家康とその子息たちの寄進によって建てられているように、徳川家から寄せられた篤い信仰がいまも感じられます。表門を寄進した徳川頼房、石鳥居や拝殿を寄進した徳川頼宣は、家康が伏見滞在中に伏見で誕生しています。他に尾張徳川家の初代藩主義直と秀忠の長女千姫も伏見で誕生していますので、水戸、紀州、尾張の初代藩主がみな伏見生まれということになります。そうしたことも徳川家が御香宮神社を崇敬した理由でしょう。
神功皇后が臨月であったにもかかわらず出征し無事出産されたということから、現在は安産の神様として御利益を求める人が多いようで、この日も私がお参りしている間だけでも、二組の家族が安産のご祈祷を受けていました。
境内にはいくつもの末社がありますが、本殿を造営した家康をお祀りする東照宮は末社の中でも創建が古く、本殿は元和八年(一六二二)、拝殿は寛永十九年(一六四二)と伝わります。
当初は境内の東(現在大神宮のある場所の東隣)にあり、周りを池で囲まれ南面していたことから、特別な末社とされていたようです。ちなみに拝殿は小堀遠江守の寄進によるとのことですが、小堀遠州は元和元年(一六二三)に伏見奉行に着任した際、奉行所内に庭園を造り、その庭が評価されたことで、遠州は大名に出世しています。昭和になって伏見奉行所跡地が市営住宅になるのを機に、その庭が御香宮神社境内に移され、作庭家中根金作によって遠州風に整えられました。遠州ゆかりの石庭として社務所の西にあります。
手水鉢には文明九年(一四七七)の銘があるとのこと。この庭は遠州によるものではありませんが、伏見に残された遠州の遺構です。
ちなみに境内には伏見城の残石も置かれています。ここに置かれるようになった経緯はわかりませんが、庭にしても残石にしても、周辺の伏見の歴史がここに集まってきているようです。