先日、南禅寺界隈別荘群の清流亭と碧雲荘の前に咲く桜の様子を投稿しました。南禅寺界隈に造られた別荘は十五邸ほどあります。その庭の多くを手がけたのが七代目小川治兵衛(一八六〇~一九三三)で、屋号をとって植治とも呼ばれています。清流亭の低い垣根越しに天から桜が枝垂れる様子は見事で、通りがかりの私たちにも眼福を分けていただきましたが、欲を言えばこの時期さらに門の内側に足を踏み入れ、植治の庭園を歩きながら、琵琶湖疎水の水を引き入れ造られたせせらぎに耳を澄ませ、回遊によって変化していく景色の中で満開の桜を見てみたいものです。
もうだいぶ前のことですが、藤田小太郎の別荘だった洛翠の庭(明治四十二年完成)を取材したことがあります。当時は郵政の共済組合の保養所で、施主の好みを反映し造られた庭を大切に管理維持されていたのが印象に残っています。その後持ち主が何度か変わり、今はユニクロの柳井さんの所有になっているようです。それはともかく、取材時何度も庭を回遊しながら、時間によって移ろう庭の景色を目に焼き付けているうち、そこが庭でありながら人の手によって造られた空間であることを忘れてしまったことを思い出します。植治の庭はここに限らず琵琶湖疎水の水を巧みに利用して造られています。庭に引き入れた水はまるで自然の小川のように流れ、池には鯉ばかりかアメンボや蛙もいます。庭の植栽は東山の風景に溶け込んで一体感をなし、木立の向こうから野鳥のさえずりも聞こえてきます。その一方で、庭の各所に謂われのある石を配することで、散策にリズムをもたらすと同時に知的好奇心も刺激されます。人の手による仕掛けですが、石という自然のものであるためか人工的な印象を抱くこともなく、石すらも元々そこにあるかのようで、計算の跡が見えません。そのときふと、滋賀県の坂本を拠点に活躍した石積み集団穴太衆が脳裏に浮かびました。穴太衆が手がける石積みは堅牢さと美しさを兼ね備えていましたが、そこに用いられた石は自然石で、仕上げを美しくするために削ったり切ったりということをしていません。それなのに、しっかりとかみ合い収まっています。それが可能だったのは、職人が石の声を聞き、どこにおさまるのが最善なのかを石に教えてもらっているからだということでした。七代目の庭造りにも、それと似たようなものがあったのではないでしょうか。力づくで無理矢理収めても反発されます。植物や石の声を聞きながら自然にあるべき場所に収まり調和をなしているのが植治の庭に思えました。
洛翠の庭は七代目が四十九歳のときのもの、庭師として中期の作とされますが、それより十三年前の三十六歳のときに山県有朋の無鄰庵を作庭したことが七代目の転機になったようで、それ以後南禅寺周辺の別荘群を中心に多くの庭を手がけるようになりました。平安神宮の神苑も無鄰庵とほぼ同時期のものです。平安神宮は明治に入り衰退していく京都の復興を願い、平安遷都千百年を記念して桓武天皇を御祭神に明治二十八年(一八九五)に創建された神社です。社殿は平安京の大内裏を模し、それを取り囲むように神苑が計画されました。広さはおよそ一万坪。池泉回遊式で、南神苑、西神苑、中神苑、東神苑と四箇所あり、それぞれ景色が異なります。平安神宮創建時に造られたのは、本殿奥の左右にある西神苑と中神苑で、七代目はこの二つの庭をわずか半年ほどで造り上げたといいます。
大極殿の左に聳える白虎楼近くが神苑入り口です。入ったところが南神苑、休閑地を利用して戦後に造られた庭で、紅枝垂れの名所になっています。
盛りは過ぎていましたが、やはり桜があるだけで華やぎが増します。
南神苑には平安時代の書物(伊勢物語、源氏物語、古今和歌集、竹取物語、枕草子)に記された植物が二百種類ほど植えられています。また野筋と呼ばれる野にあるような細い道や、池に水を引き入れる幾筋もの遣水といった平安時代の庭の特徴が取り入れられいることから、平安の苑とも呼ばれます。
左手に茶室を見ながら進むと、大きな池の庭に出ます。そこが七代目が創建時に手がけた西神苑です。
この庭の主役は白虎池。初夏、この池は睡蓮と河骨、花菖蒲で彩られます。花菖蒲は二百種類、二千株もあるそうですから、その季節に訪れてみたいものです。
庭を北に向かって進むと、滝の音が聞こえてきます。西神苑の北には平安神宮の神苑で唯一の滝があります。さりげない小さな滝ですが、水の流れ、動きがあると、より自然な印象になります。
小川に沿った森の中のような小径は、ちょうど本殿の裏側(北)に当たります。この石積みも七代目が得意とした技法とのこと。ここを抜けると、西神苑同様に七代目が創建時に造った中神苑に出ます。
木陰の道から視界が開け、明るい池が目に飛び込んできます。この庭に出たときの高揚感は、その前に歩いてきた木陰の道によってもたされたところが大きく、見事な演出効果です。中神苑の主役もやはりこの池です。清龍池と呼ばれ、周囲には杜若が群生しているので、間もなくここも群青色の花で彩られるはずです。
池に沿って進むと、次々に景色が変わります。
池に張り出した見事な松に目を奪われていると、松の枝ごしに楽しい仕掛けが見えてきます。
池の中にある珊瑚島まで飛び石が配されています。龍が伏している姿に似ていることから臥龍橋と呼ばれます。この石は天正十七年に豊臣秀吉が造った三条大橋と五条大橋の橋脚に使われていたもので、京都の歴史遺産が見事に生かされています。
臥龍橋を渡り南に進むと、四つ目の東神苑です。明治の終わりにこの場所が平安神宮の敷地となり、七代目に作庭の依頼が再び来たとのことで、造園は明治の終わりから大正の初めにかけて行われました。
西神苑から中神苑に出たときは、明るい開放感が印象的でした。中神苑から東神苑に出て目を奪われるのは東山と一体になった雄大な景色で、先ほど以上に開放感があります。
栖鳳池の向こうに見える建造物が、庭の風景をより格調高いものにしています。上の写真は泰平閣という橋殿。元は京都御所にあった博覧会の建物だったものが、東神苑を造るにあたり移築されました。冒頭と下の写真に見える檜皮葺の建物も、元は博覧会の中堂だった建物で、当初は瓦葺きでしたが移築後に檜皮葺に吹き替えられ、より庭の景色に馴染むようになりました。
明るく広大な東神苑は、どこを切り取っても絵になります。
やや花の盛りが過ぎていたので、もう一週間早かったら、池周りがより華やかだったかもしれません。
桜の時期でなくても、この庭の雄大な風景は見る者の心を捉えます。四つの庭は造られた時期も趣向も異なりますが、いずれも水の存在が大きく、景色に驚きと発見がありました。東山を仰ぐ京都の自然の中に、もう一つ凝縮された京都の自然を見ているようなので、また季節を変えて訪れたいものです。