甲子園球場で行われている春の選抜高校野球も残り三試合になりました。一生懸命に練習し準備してきたものを憧れの甲子園で思い切りぶつける姿は見ていて清々しく、自分に少しでも縁のある高校が出場したりすると、応援にも力が入ります。間近であの年代のとてつもないエネルギーに接していたら、エンジンが止まりかかっていたこちらの体にも少しばかり力がチャージされました。
ところで甲子園球場の一塁側に沿って南に歩いていくと、ライトスタンドの場外に甲子園素盞嗚神社があります。元は午頭天王をお祀りする牛頭天王社だったものが明治になってから素戔嗚神社と改められたと伝わり、場所がら野球関係者が必勝祈願に訪れることが多いようですが、拝殿の右にはお稲荷さんが、さらにその右にはえびす様がお祀りされています。写真を取り損ないましたが、小さな祠で元戎社と呼ばれます。
えびす様というと、大黒様と共にあちらこちらでお祀りされているのを目にします。神様でありながら親しみやすく、商売繁盛、五穀豊穣をもたらす福の神として私たちの生活の傍らにいつもいらっしゃるという感じがする割には、あまりその由来に気を留めることがなかったのですが、地図を眺めていたら甲子園の周辺には他にもえびす様をお祀りする神社が数社ありますし、電車で二駅西にいった西宮にある西宮神社は、全国に三千五百社あるというえびす神社の総本山ですから、この辺りはえびす神に縁の土地のようです。これは好機と、甲子園の熱気を引きずったまま、えびす様の足跡を少しばかり辿ってみることにしました。
まず向かったのは、甲子園素戔嗚神社から程近いところにある今津浜恵比須神社です。
御祭神は蛭子大神。御由緒によると、海に流された蛭子は海の神となるべく修行され、漁法や商法を人々に伝授するため今津浦に着岸し、その後西宮神社に遷られたことから、ここが蛭子大神の着地所であり、境内にある舟形の石はその伝承を伝えるものだということ、また蛭子の乗った輿が途中で休憩された場所が「蛭児大神御輿屋傳説地」として西宮神社に近い札場筋にあるということです。
先ほどの甲子園素戔嗚神社境内にある元戎社は、蛭子が浜に流れついたところを鳴尾の漁師に引き上げられ、海の神としてお祀りされた最初の場所であることから元戎と呼ばれます。ただし、厳密には元戎は別の場所で、そこが消滅してしまったため、甲子園素戔嗚神社境内に遷したということのようですが、伝承を絶やすまいというところに、当地とえびす神との関係の深さがうかがえます。
えびす神は、夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須、恵美寿というように様々に表記され、その由来は蝦夷という説があります。蝦夷は、朝廷に従わず強大な力を持つ東北・北海道の人のことですから猛々しいイメージですが、現在えびす神といえば釣り竿と鯛を手ににっこり微笑む気の優しそうな姿を思い浮かべます。この姿は七福神信仰が流行る室町時代からのものなので、それ以前のえびす神がどのような姿をされ、どのように信仰されてきたのかが気になりますが、今津浜恵比須神社にお祀りされている蛭子は、複雑に変遷してきたえびす信仰の一つの源流を伝えています。
今津浜恵比須神社の御由緒にある御祭神蛭子は「えびす」であると同時に「ひるこ」とも読めます。ヒルコは日本神話の国生みの段で、伊弉冉・伊弉諾の御子として生まれるも、手足の萎えた不具者だったことから、天磐櫲樟船に乗せられ風のままに棄てられてしまいました(『日本書紀』)。今津浜恵比須神社はそれを神社の由来に結びつけているということですが、西宮にあるえびす神をお祀りする神社は、どうやら皆その伝承で繋がっているようです。
えびす神社の総本山である西宮神社に行ってみると、「えびす様は神戸和田岬の沖で出現され、鳴尾の漁師がおまつりしていましたが、西の方に宮地があるとの神託でこの地におこしになられた」ということで、今津浜恵比須神社の御由緒に書かれていたこととほぼ同じです。鳴尾というのは甲子園球場付近の海岸沿いで、現在は鳴尾町という地名が残っていますが、かつてはもっと広い範囲を指したのではないかと思いますし、海岸線の位置も現在よりだいぶ北にありましたので、西宮神社は瀬戸内海を望んでいたはずです。
西宮神社および西宮周辺に日本神話のヒルコ伝承が伝わるのは、国生み神話にあるオノゴロ島が瀬戸内海にあったとされることが関係しているのではないでしょうか。先ほどえびすは蝦夷に由来する説があると書きましたが、蝦夷を部外者、つまり海の向こうからやってきた人というように広く捉えると、瀬戸内海沿岸部の西宮に部外者が流れついた歴史が日本神話と融合し、ヒルコ伝承が生まれたと考えることもできそうです。つまり西宮神社も含め周辺に伝わる蛭子伝承は、海と関わりの深い海人族と彼らの信仰が根底にあるのではないでしょうか。
ここで少し西宮神社の様子を。
まず目を奪われるのは美しい大練塀。室町時代の再建で、全長二四七メートル。国の重要文化財に指定されています。
冒頭の朱色の門は慶長九年(一六〇四)に豊臣秀頼による寄進で再建されたと伝わる表大門で、南東にあります。こちらも国の重要文化財に指定されています。一月十日に行われる十日戎開門神事福男選びで、福男になるべくこの門が開かれたと同時に猛スピードで本殿に向かって駆ける様子をテレビなどでご覧になった方も多いでしょう。走るところばかりが強調されて報道されますが、えびす様のお祭である十日戎の行事の一つで、これは走り参り、単なるレースではありません。
赤門をくぐると松の参道が続きます。かつて浜に近かったことを思わせる道。この日は陶器市をやっていました。
しばらく進むと廣田神社の境外摂社である南宮神社が、その裏手にはえびす神の荒魂をお祀りする沖恵美酒神社があります。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、廣田神社は五社あり、そのうちの一つ浜南宮に廣田神社と同じ神様をお祀りし、別宮としたのが西宮神社の始まりと伝わります。その歴史を伝えるような存在がこの南宮社です。ちなみに廣田神社は西宮神社の北二キロほどのところにある式内社で、天照大神荒魂をお祀りしている古社です。
参道は南宮社から北に向きを変え本殿に向かいます。
あいにく社殿は工事中でしたが、拝殿は朱の柱が美しく、その奥の本殿は三つの屋根が並ぶ三連春日造り。写真からでも立派な社殿であることがわかります。
境内にはいくつもの摂社末社があります。そのうちの一つ百太夫神社は、傀儡師の祖百太夫をお祀りしています。西宮神社の北に住んでいた傀儡師たちは神社の雑役に奉仕する一方、人形遣いとして全国にわたり、えびす神の御神徳を説く芝居によってえびす信仰を全国に広めたとされています。
西宮神社やその周辺の神社のえびす信仰はヒルコ伝承によりますが、そこには南方海洋民俗神話や太陽神、海神の信仰なども見え隠れしています。神社の創建は平安時代以降でも、信仰の流れはもっと古くからあったはずですし、瀬戸内海のどん詰まりに近い西宮という土地だからこその伝承にも思えます。
鳴尾の漁師に引き上げられた蛭子が西宮神社のある当地に向かう様子を再現する御輿屋祭が六月に行われます。さらに九月の西宮祭では、和田岬沖でえびす神の御神像が漁師の網にかかり西宮にお祀りしたという由来による渡御祭が行われるというように、祭事においても蛭子伝承が受け継がれています。
ちなみにえびす神を事代主神と同一視する神社もあります。事代主神は大国主神の御子神で、出雲国の美穂之崎で釣りをしていた姿が記紀に記されています。その姿が釣り竿を手にしたえびす神と結びついたことによるのでしょう。蛭子であれ事代主神であれ、えびす神はその土地その土地の歴史と結びつきその土地に合った形で信仰されてきました。えびす様と言われるほど親しみやすく人気があるのは、姿だけでなく柔軟な性格に依るところがあるのかもしれません。