一年の巡りは早いもので、気がつけば七月も三分の一を過ぎ、待ちに待った祇園祭の季節になりました。七月一日には長刀鉾のお稚児さんと補佐役の禿が祭の安全を祈願するお千度の儀が八坂神社で行われ、二日には巡行順を決めるくじ取り式、三日には船鉾の御神体である神功皇后像に取り付けるお面の無事を確認する神面改め、五日には長刀鉾の稚児舞披露…と連日様々な行事が続いていますが、本日十日からはいよいよ鉾建てが始まり、十七日の前祭(巡行、神幸祭)と二十四日の後祭(巡行、還幸祭)という二つのクライマックスを迎えます。先日京都の町中を車で走っていたら、河原町通りにお祭の提灯がずらり、浴衣姿の人も眼に付き、すでにお祭の雰囲気が漂っていました。
巡行前日、あるいは前々日の宵山、宵々山に各鉾町を巡るのを楽しみにしていますが、今年は祇園祭に深く関係していながら、これまで目を向けてこなかったところを取り上げようと思います。まずは綾戸國中神社です。
綾戸國中神社が鎮座しているのは桂川に架かる久世橋に近い京都市南区久世上久世町、かつての山城国乙訓郡訓世村です。乙訓というと、以前投稿した乙訓寺や向日神社があるところです。そこでも触れたように乙訓は古くから開かれ、古代様々な勢力が入り乱れていました。桂川流域ということから、治水や灌漑の技術を持った秦氏の足跡も残されており、山城盆地に入るより前に乙訓にそうした技術を携えた人々が入植した可能性があります。綾戸國中神社が鎮座する久世は現在は京都市に属していますが、向日市や長岡京市、大山崎町一帯を表す乙訓地域を意識した方が、当社や周辺の土地の歴史を理解しやすいように思います。
綾戸國中神社は現在桂川から二百メートルほど距離がありますが、太古の時代川は現在より西にありましたので、神社のある久世一帯は川沿いの湿地帯でした。東寺に近いところにあった羅城門を起点に下関(あるいは太宰府)に延びる山陽道が、江戸時代に西国街道として整備されましたが、その街道が桂川を越えて南に向きを変えた辺りの西側に神社は鎮座しています。
元は綾戸宮と國中宮という別の神社だったものが、戦国時代に綾戸神社境内に國中神社が合祀されたと伝わります。神社が合祀された場合、どちらかが吸収されて表からは見えなくなってしまうことが多い中、当社では社名にも、また冒頭の写真のように拝殿にも綾戸と國中の名前がわかるようになっています。
社伝によると、綾戸神社は継体天皇の時代大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し、天暦九年(九五五)村上天皇の時代に綾戸社に改称されたとのことです。『延喜式』神名帳の乙訓郡十九座にある大井神社を綾戸社に比定する説もあるようですが、実際の関係は不詳です。綾戸という名は、桂川に鮎が集まった瀬戸に由来するようです。
綾戸神社の御祭神は大綾津日神、大直日神、神直日神の三柱。大綾津日神は禍津日神とも記され、神生み神話で伊弉諾尊が黄泉の穢れを祓った際に生まれた神さまで、禍津日は災厄の神霊という意味だそうです。平田篤胤はこの禍津日神を素戔嗚尊の荒御魂と考えました。神直日神と大直日神は、禍津日神がもたらす禍を直すために生まれた直毘神です。
綾戸神社の最初の鎮座地は別の場所でしたが、大堰川(桂川)に近いことに変わりはなく、こうした神々の持つ性質から、穢れや災いを川の流れによって清めたいということでお祀りされたと考えられますが、同時に治水を願う気持ちもあったかもしれません。
もう一方の國中神社は、社伝によると、付近一帯が湖水だった神代に素戔嗚尊が天から降り、水を切り流して土地を拓き、その國の中心に愛馬である天幸駒の頭を自ら彫刻し形見とした符を遣わせたとのことで、その符を御神体としてお祀りしています。御神体である符は素戔嗚尊の荒御魂とされているそうです。國中神社も、当初は現在地から北西に五百メートルほどの、現在蔵王堂光福寺のある蔵王の社(現・蔵王堂光福寺)に鎮座していたとのことで、先ほども触れたように戦国時代に綾戸神社境内に遷され、合祀されました。
ここで興味を惹かれるのは、國中神社が中世の頃まで牛頭天王社と呼ばれていたことです。牛頭天王は、わかりやすく言えば外来の習合神です。当初疫病を蔓延されるというので追い払われる行疫神だったものが、いつしか疫病の蔓延を防ぎ人々を守ってくれる神に変化していますが、その淵源は『中世京都と祇園祭』(脇田晴子著)によると中国の殺牛祭神にあり、それが朝鮮半島の蘇民将来の信仰と習合し日本列島に伝わった可能性が示されています。
京都の八坂神社は元はこうした性格を持つ牛頭天王をお祀りする感神院祇園社でしたが、明治の神仏分離によって日本神話の素戔嗚尊を御祭神とし、八坂神社となりました。明治の神仏分離によって牛頭天王の名がほとんど表に出てこなくなった例は多く、國中神社も同様です。
八坂神社の創建由来は諸説あり確かなことはわかりませんが、一説には斉明天皇二年(六五六)に高句麗から渡来した伊利之使主が新羅国の牛頭山に座す牛頭天王を八坂の地にお祀りしたことに始まると伝わります。伊利之は八坂塔を創建した八坂造の祖とされています。牛頭天王は三尺の牛頭と三尺の角を持つ神で当初行疫神としてお祀りされていますが、平安時代の初めに疫病が流行したのは牛頭天王の祟りによるものと考えられ、それを鎮めるため神泉苑で行われた御霊会が祇園祭の起源とされているように、牛頭天王は祇園祭を語る上で欠かせない神さまです。
ちなみに蘇民将来は備後国風土記に記された人物です。武塔神が旅の途中宿を乞うた際、裕福な弟がそれを断ったのに対し、蘇民将来は貧しいながらもてなしたことから、武塔神は後に蘇民の娘に茅の輪をつけさせ、それ以外の人を皆殺しにしてしまったということで、茅の輪を付けていれば疫病を免れることができると信じられてきました。武塔神や蘇民将来の起源ははっきりとはわかりませんが、朝鮮半島の信仰との関連を指摘する説もあります。『中世京都と祇園祭』では朝鮮半島由来説です。京都の祇園祭において、「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符が厄除けの粽に付いているのは、この説話によるもので、我々は蘇民将来の子孫なので疫病から守ってくださいという願いを込めて粽を玄関先に飾ります。このように蘇民将来は今も祇園祭に深く根ざしていますが、この説話において武塔神が後に自分はスサノオであると名乗ったとのことですから、武塔神=素戔嗚尊となります。牛頭天王も素戔嗚尊と類似した性質を持ち合わせていることから両者は習合しています。牛頭天王が習合神であることがここからもよくわかります。
ようやくここで綾戸國中神社と祇園祭の話に入ることができます。
祇園祭で山鉾巡行を終えた夕方以降に行われる神幸祭と還幸祭では、御神輿の渡御があります。御神輿は中御座神輿、東御座神輿、西御座神輿の三基で、中御座神輿には八坂神社主祭神の素戔嗚尊の御神霊、東御座神輿には素戔嗚尊の妻である櫛稲田姫命、西御座神輿には素戔嗚尊の八柱の御子神の御神霊がそれぞれお祀りされています。神幸祭では御神輿が八坂神社を出発し町を練り歩いた後、御旅所に到着。還幸祭では御旅所を出発し、また町を練り歩いた後八坂神社に戻っていかれますが、素戔嗚尊の御神霊をお祀りする中御座神輿を先導するのが、國中神社のお稚児さんです。お稚児さんは二名で、神幸祭と還幸祭で別のお稚児さんが先導しますが、このお稚児さんは國中神社の御神体である馬の頭を象った駒形を胸に下げていることから駒形稚児と呼ばれます。神の化身ですので、下馬することなく馬に乗ったまま八坂神社境内に入っていきます。
國中神社の御祭神が荒御魂で、八坂神社の御祭神が和魂とされ、一体にして二神、二神にして一体、駒形稚児が八坂神社に到着しないと御神輿を動かすことができません。御神輿を動かすことができなければ、疫神を鎮めることもできませんから、駒形稚児の役割がいかに大きいかということです。
乙訓の地は山城盆地より前に主に渡来系の人たちによって開かれた土地ですから、國中神社の神さまが荒御魂で八坂神社が和魂であるということよりも、牛頭天王の最初の鎮座地が久世で、その後八坂の地にお祀りされたということを伝えるものとして、久世の駒形稚児が八坂神社の御神輿を先導するのではと想像しているところで、もしそうであるなら駒形稚児の先導は牛頭天王の移動とそれを信仰する人の流れを伝えていることになります。そういえば、二〇〇一年に長岡京跡から八世紀末のものと思われる「蘇民将来之子孫者」と書かれた木札が発見されました。考古学的に蘇民将来の信仰を伝える最古のものですが、長岡京もまさに乙訓にあります。
このように古い歴史を擁し祇園祭とも関わりの深い綾戸國中神社ですが、社殿については残念なことが続いています。本来二社殿で西向きだったものが、昭和九年の室戸台風で倒壊したため、そこから二十メートルほど北の地に一社殿二扉で南向きに再建されました。さらに昭和三十九年に東海道新幹線敷設のため、東に移転し現在に到っていますが、新幹線が下の写真のようにすぐ横を通っており、社務所と分断されています。かつての神社の様子も周辺の環境も現在とは全く異なっていたはずで、往時の姿が記録されているならそれを見てみたいものです。
コロナ禍の中断を経て、今年は四年ぶりに駒形稚児が御神輿を先導します。お稚児さんというと長刀鉾のお稚児さんばかりが注目されますが、祇園祭の歴史からいうと駒形稚児にもっと目を向けるべきだと思います。神幸祭に先立ち、十三日には駒形稚児が八坂神社に参拝します。(このときはまだ御神体を身につけていないので、歩いてお詣りをします)神幸祭か還幸祭でその勇姿に出会えるといいのですが。