久しぶりに東京の話題を。取り上げるのは世田谷区にある豪徳寺です。
東京二十三区の南西部に位置する世田谷区は、二十三区内で人口が最大、面積も太田区に次いで二番目に広い区です。下北沢や三軒茶屋、二子玉川といったお洒落な商業エリアと、閑静な住宅街がほどよく融合し、住環境の良さという点で都内でも常に上位に入っています。そのような世田谷区は時代を遡った室町時代、足利氏の流れを汲む奥州吉良氏の領地で、貞治五年(一三六六)吉良治家により世田谷城が築かれました。
城跡は現在公園になっていますが、公園の北西、現在豪徳寺のある辺りも吉良氏の城跡だったようで、世田谷城内にあった小庵が豪徳寺の前身とのことです。小庵の時代は臨済宗でしたが、天正年間に曹洞宗に変わり、江戸時代には井伊家の菩提寺となり、その際寺名を豪徳寺と改めています。境内には井伊家の墓所(国の史跡)もあります。
十年前の二〇一三年十月、東海道の紀行が出版できるようにと願をかけ、豪徳寺で招福猫児を買い求めました。出版までの道のりは遠く紆余曲折ありましたが、昨年なんとか出版することができたので、福を授けてくださった招福猫児を遅ればせながら返礼奉納するため、上京の機会に豪徳寺を訪れました。
石門の先に続く見事な松並木の参道。
その奥には「碧雲関」と書かれた扁額を掲げた山門が、外界と境内を隔てるように建っています。
境内には平成十八年落慶の三重塔も。新しい塔ですが、境内の風景に溶け込んでいます。
仏殿前で手を合わせた後、西隣の招福殿に向かいました。
ここが招福猫児の奉納場所で、お堂には招福観音菩薩立像がお祀りされていますが、そもそもなぜ豪徳寺に招き猫がいるのかというと、次のような話が伝わっています。
彦根藩第二代藩主井伊直孝が鷹狩りの帰りに寺の近くを通った際、門前にいた猫に手招きされ、寺に立ち寄ったところ、間もなくして突然の雷雨に見舞われます。猫のおかげで雷雨に遭わずに済んだうえ、和尚の説法も大いに喜んだ直孝は井伊家の菩提寺として伽藍を整備し寺を再興したそうです。
そうしたことから、豪徳寺では福を招く猫を招福猫児と呼び、招福殿を建てて招福観音菩薩立像をお祀りしているとのこと。本当はもっと早く訪れたかったのですが、招福殿の建て替え工事の関係もあってこの日になりました。お堂が新しくなったばかりか招福猫児を奉納する場所も増えたので、お堂の周りは猫、猫、猫。それだけ多くの人たちに福を与えてきたということで、役目を終えた招福猫児とはいえ、これだけ集まると圧倒されます。
私が十年前に願いをこめて求めた招福猫児はこちらです。おかげさまで、『東海道五十三次いまむかし歩き旅』という一冊の本になりましたし、十年前には考えてもいなかった別のことも実現させることができましたので、ご利益は相当なもの?かもしれません。
感謝の気持ちと共に、大きな猫の間に奉納しました。
次の願いごとの実現に向け、もう一回り大きな招福猫児をいただいて帰りました。何年先になるかわかりませんが、またここにいつも応援してくれる友人と訪れることができるよう、力を尽くしたいと思います。
ちなみに豪徳寺の西にある世田谷八幡宮も吉良氏にゆかりの場所です。創建は寛治五年(一〇九一)源義家が宇佐八幡宮の御分霊をお祀りしたことに始まると伝わりますが、後の天文十五年(一五四六)には吉良頼康が社殿を再興しています。
世田谷城の西の守りを固める出城の機能も担っていたようです。
境内には奉納相撲の土俵も。奉納相撲がいつ頃から行われていたのかはわかりませんが、世田谷八幡宮は江戸郊外三大相撲の一つだそうで、江戸時代には盛んに奉納相撲が行われたようです。
東京に対する先入観を捨てると、今まで知らなかった東京の歴史が見えてきそうです。豪徳寺への参拝のおかげで、そんなことにも気づかせてもらいました。