まだ寒い日が続きますが、暦の上では春を迎えました。春が立つという言葉通り、硬い冬の殻を破って春が立ち上がってきたようで、陽ざしに春の気配が感じられます。今年の一月は例年以上に寒さが厳しかったので、春を待ちわびる気持ちもいつもより強くなりそうです。季節が春に向かって進むにつれ、凝り固まっていた体や心が少しずつほぐれていくといいのですが。
一昨日の節分では各地で節分会が行われました。節分というと、ここ数年京都の吉田神社にお詣りするのが恒例になっています。吉田神社の大元宮と本宮にお詣りし、疫神斎のお札を新しいものに改め、実家にあった古いお札やお守りを火炉祭で焼き納めていただくために預けた後、今年は別の節分会を見たくなり、御所の東にある廬山寺に行くことにしました。
廬山寺は比叡山の元三大師良源により、天慶元間(九三八)に船岡山の南に與願金剛院として創建されたことに始まります。その後、法然に帰依した覚瑜上人(一一五八~一二三五)が船岡山東の出雲路に廬山寺という寺を創建、さらに時代下った南北朝時代に與願金剛院と廬山寺を兼務した明導照源上人(一三三九~一三六八)によって廬山寺が與願金剛院に統合され、廬山天台講寺となりました。廬山寺と呼ばれますが、廬山天台講寺が正式で、これにより天台宗、密教、律宗、浄土宗の四宗兼学道場として天台の別院となりました。現在地に遷されたのは、天正年間(一五七三~一五九三)のことです。
現在山門前に「紫式部邸宅址」と刻まれた石標が立っているように、ここは平安時代に紫式部の曾祖父藤原兼輔が建てた堤第という屋敷があった場所とされており、曾孫である紫式部もこの屋敷に居住したことがあると考えられるそうです。境内奥にあるこちらの石碑には、紫式部と娘の大弐三位の歌が刻まれています。紫式部の歌は「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影」、大弐三位の歌は「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」。どちらも百人一首にある歌です。『源氏物語』も堤第で書かれたと考えられるそうですから、京都に堆積している歴史の層の厚さには感じ入ります。
さて廬山寺の節分会では追儺式鬼法楽が行われるというので、早くから元三大師堂前に人が集まっていました。
元三大師堂にお祀りされている元三大師(良源)は、鬼の姿となって疫病神を追い払ったことから鬼大師とか角大師とも呼ばれます。節分に鬼が登場するのは、その故事によるもので、廬山寺でも赤鬼、青鬼、黒鬼がやってきて追儺式を盛り上げてくれます。廬山寺によると、ここに登場する三匹の鬼は、村上天皇の御代に宮中で護摩供を修していた際に現れた鬼で三つの煩悩、つまり貪欲、瞋恚(怒り)、愚痴を表しているのだとか。
15時になると、追儺師、蓬莱師、福娘などに続き、導師さま、最後に大導師さまが堂内に入場され、堂内では護摩供の修法が始まります。
そこに登場するのが赤鬼、青鬼、黒鬼で、三匹の鬼はしばし舞台で踊った後、堂内に入っていきます。
鬼は堂内で修法の邪魔をしますが、護摩供の秘法によって堂内から追い出されます。
その後追儺師によって邪気祓いのために五本の弓が空に放たれ
その後豆まきが行われると、鬼は完全に降参して退散します。
廬山寺の追儺式は鬼踊りとも呼ばれます。こぢんまりとした境内で間近に見ることができるとあって、人気の節分会のようです。廬山寺では節分に紅白の砂糖で固めた蓬莱豆や福餅が売られています。蓬莱豆は紅白一つずつ食べると寿命が延び、福餅は開運出世が望めるのだとか。吉田神社などですでにお豆を買っていましたし、そもそも寿命は延びなくていいので、福餅をいただいて帰りました。出世も要りませんが、運が開けるのは良いことですから、早速ぜんざいにしていただきました。
ちなみに吉田神社から廬山寺に来る途中、護浄院清三宝大荒神でも節分祭が行われていました。こちらはさらに小さな境内で、まさに地元の人たちの節分会という雰囲気。鬼は出ませんが、こうした節分会もいいものだなと思います。