京都では祇園祭や五山送り火が終わった後も、夏の伝統的な信仰行事として六地蔵めぐりがあります。祇園祭や五山送り火のように観光の要素も加わり大規模に盛り上がるものではありませんが、生活に根付いた行事としてこれもまた京都らしいものだなと、酷暑の一日六カ所を巡って感じたところです。
今年はお盆の前、千本ゑんま堂と千本釈迦堂で六道参りをする機会を持ちました。ゑんま堂は小野篁が閻魔大王を自ら刻んでお祀りしたことに始まると伝わりますが、鳥辺野の六道珍皇寺も同様で、どちらにも迫力ある閻魔大王像がお祀りされています。六道珍皇寺には衣冠束帯姿の小野篁像もお祀りされており、百八十センチ近い像高は等身大とも言われ、貫禄と威厳が感じられます。篁は朝廷の役人として活躍する傍ら、学問や詩歌、書にも優れた才人であった一方で、冥界との間を行き来したとか、冥界で閻魔大王の補佐をしたとか、異界伝説も付随しています。『今昔物語集』には右大臣・藤原良相が閻魔大王の前で裁きを受ける際、篁が仲介して良相は生き返ったという話が出ていますし、大江匡房の『江談抄』にも藤原高藤が気を失った際、閻魔大王の隣に篁が座っていたと後日話したということが出ているように、篁にまつわる蘇生譚はいくつも伝わっています。こうした伝説が生まれた背景には、小野篁が遣唐使の命に背いて隠岐に流罪になった後、二年後に許されて朝廷に復帰し出世を重ねていったということが関係しているようです。
ところで地獄で責め苦にあう人々を救済してくださるのが地蔵菩薩です。平安末期末法思想の広まりと共に、地獄に墜ちた人を救ってくれる地蔵菩薩への信仰も広まっていきました。嘉祥二年(八四九)四十八歳の小野篁も大病で仮死状態になり、地獄で地蔵菩薩にまみえたことがあるといいます。その際地蔵菩薩より、娑婆世界に戻ったら地獄の恐ろしさを人々に伝え、地蔵菩薩に帰依するようにと告げられ生き返ったということで、篁は木幡山の桜の木から六体の地蔵像を刻み、木幡の里、つまり現在の伏見の六地蔵の地に安置されたと伝わります。その後後白河天皇が平清盛に命じ、都に通じる街道の六つの入り口に六角堂を建て、それぞれ一体ずつお祀りしたとのことです。
六角堂が建てられた六つの街道とは、奈良街道、西国街道、丹波・山陰街道、周山街道、鞍馬街道、東海道で、奈良街道には大善寺に伏見六地蔵、西国街道には浄禅寺に鳥羽地蔵、丹波・山陰街道には地蔵寺に桂地蔵、周山街道には源光寺に常盤地蔵、鞍馬街道には上善寺に鞍馬口地蔵、東海道には徳林庵に山科地蔵がそそれぞれお祀りされています。地蔵菩薩は道祖神と習合し悪いものが入ってくるのを防ぐ役割も期待されていたこともあり、六地蔵への信仰は急速に広まっていったようです。
六地蔵巡りは八月二十二日と二十三日に六体の地蔵菩薩にお参りし、無病息災や家内安全などを願うもので、期間中配られる六地蔵めぐりについての説明には後白河天皇の命で六カ所にお堂が建てられたことから六地蔵巡りの風習が起こったとありますが、本格的に広まったのは江戸時代のようです。『京都地蔵盆の歴史』(村上紀夫著)によると、寛文年間(一六六一~七三)に京都の観音像を巡る洛陽三十三所観音巡礼が中興されたこともあり、伏見の大善寺が中心となって六地蔵巡りについて記された縁起を後水尾上皇にご覧に入れるなどして権威付けをはかったとのことで、そうした働きかけが元になり六地蔵巡りが広く行われるようになったようです。
ちなみに地蔵菩薩の縁日は毎月二十四日で、その中でもお盆に近い八月二十四日は地蔵盆として盛大な法要が行われます。地蔵盆は関西を中心に行われる子供のためのお祭で、その際お祀りされるのは町のあちらこちらで見られる小さなお堂に安置されている小さなお地蔵様です。石仏が多いようですが、木像のものや絵に描かれたものもあります。これも地蔵信仰の別の形です。
六地蔵巡りは徒歩で行うことで御利益を得られるのでしょうが、京都の町を取り囲むように点在する六つのお堂を気温三十五度を超える中歩くのは今の体力では無理なので、今回は電車を乗り継いで廻りました。順序に決まりはないというので、まずは鞍馬口地蔵のある上善寺へ。
上善寺は貞観五年(八六三)円仁により天大密教の道場として創建されたと伝わります。浄土宗になったのは秀吉の時代です。
こちらが鞍馬口地蔵がお祀りされている地蔵堂ですが、ここの地蔵菩薩は明治の廃仏毀釈で当寺に遷されたもので、元は深泥池のほとりにあったのだそうです。写真はありませんが、ここの地蔵菩薩はすらりとして、女性的な雰囲気を纏っています。六地蔵巡りではそれぞれのお堂でお幡と呼ばれるお札をいただき(購入し)、疫病退散や家内安全、福徳招来の護符として家の入り口などに吊しておく習慣があります。お堂によって幡の色が異なります。鞍馬口地蔵では赤い幡をいただきました。
次に向かったのは鳥羽地蔵のある浄禅寺です。浄禅寺は旧千本通りからわずかに東に入ったところにありますが、ここから旧千本通りを北に四キロほど行くと、九条通り、つまり西国街道に合流します。
浄禅寺は寿永元年(一一八二)文覚上人によって開かれたと伝わります。文覚上人とは、北面の武士遠藤盛遠のことです。盛遠は渡辺左衛門尉渡の妻袈裟御前に恋し、渡を殺して我ものにしようとしますが、袈裟御前が自ら夫の身代わりとなって盛遠に殺されてしまったことから、盛遠は自らの罪を悔いて出家し文覚と名乗りました。
地蔵堂は門をくぐった正面にあります。ここにお祀りされている地蔵菩薩像はふくよかなお姿が印象的です。
続いて向かったのは東海道の山科にある山科地蔵です。ここは旧東海道を歩いたとき以外にも何度か来ていますが、普段お堂は閉じられていますので、地蔵菩薩を拝観するのは初めてです。
冒頭の写真と下が徳林庵の地蔵堂、旧東海道に面して建っています。
徳林庵は天文十九年(一五五〇)人康親王の菩提を弔うため、雲英正怡禅師によって開かれたと伝わります。境内隅には人康親王の供養塔もあります。
山科地蔵は貫禄のあるお姿で、往来の激しかった旧東海道に相応しいお地蔵様に思えます。
地蔵堂の奥、庫裏の門をくぐった先には、秘仏閻魔天がご開帳されています。説明によると、地蔵菩薩の化身閻魔大王の若いときのお姿なのだそうです。お顔が優しく見えれば罪障は少ないとか。入り口から閻魔天がご開帳されている建物まで紐が張られ、そこに多くの古い幡が結びつけられています。昨年の幡を奉納し、また新しい幡をいただいて帰るということで、それぞれのお堂にこうした縄が張られています。
ようやくこれで半分のお参りが済みました。次に向かったのは伏見六地蔵の大善寺です。最初に触れたように、ここは六地蔵発祥の地です。地名の六地蔵もそれに由来します。
大善寺は慶雲二年(七〇五)藤原鎌足の子、定恵上人によって創建されたと伝わります。ちなみに定恵上人というと、以前訪ねた大阪府茨木市の阿為神社に隣接する大念寺の創建にも関わったとされる話を思い出します。
伏見のお地蔵様は頭にかぶり物をされています。ほっこりと優しげなお姿です。
残りはあと二カ所。京都の北西に向かって移動、常盤地蔵のある源光寺へ。源光寺は京福の常盤駅のすぐ近くにあり、東に一キロほどのところに周山街道が通っています。
寺伝によると源光寺は嵯峨天皇の第三皇子、源常の山荘を寺に改めたものとのことで、このあたりの常盤という地名はそれに由来するようです。また源義経の母常盤御前は常盤の地で生まれ、晩年この寺の境内に庵を結び当地で没したと伝わっています。
常盤地蔵は大変美しいお地蔵さまです。地蔵菩薩でこれほど美しいお姿は拝見したことがありません。鞍馬口地蔵が姉子地蔵と呼ばれるのに対し、こちらの常盤地蔵は乙子地蔵と呼ばれるそうです。
いよいよラスト、桂地蔵のある地蔵寺へ。前の道は旧山陰道です。
地蔵寺の創建時期については諸説あります。桂大納言と呼ばれた源経信の別邸が後に寺に改められたという説や、南北朝時代に虎関師練が南禅寺の大明国司の塔所として開いたという説などで、どれも確証を得られていません。
桂の地蔵寺には六角堂はありません。正面の本堂が地蔵堂を兼ねているようで、そこに地蔵菩薩がお祀りされています。本堂も含め境内の建物はどれも新しく、二〇〇七年の再建だそうです。以前は地蔵堂があったのかどうか、聞きそびれました。
桂地蔵は、木の一番下の部分で刻まれたために六体の地蔵菩薩の中で最大で、姉井菩薩と呼ばれます。あいにく写真はありませんが、あでやかな衣をまとった堂々としたお姿です。
京の町を取り囲むように置かれた六地蔵なので、円を描くように巡礼すればよかっただろうかとか、夕暮れから夜にかけて灯りがともった地蔵堂の方が赴きがあっただろうかとか、終わってみるとあれこれ思いますが、今回は酷暑の中無事に六カ所廻れたことで良しといたします。