二〇二〇年の夏、本来なら祇園祭で賑わっているはずの京都が新型コロナの影響で鉾建ても神輿渡御も中止となり、ひっそりと静まりかえっていました。御神霊の渡御のみが関係者によって執り行われましたので、祇園祭が中断したということではありませんが、祭の花形である山鉾や神輿がない祇園祭は何とも寂しいものでした。もっとも当時は外出すること自体が憚られる風潮で、京都中ががらんとしていましたので、祭の中心的な行事を取りやめるというのはやむを得なかったと思います。昨年二〇二一年は、三十二ある山鉾町の半分ほどで山鉾建てのみ行われました。土台は釘を一切用いず縄のみで木材を組み立てて固定、そこに数え切れないほどの部材や装飾品を取り付けていく複雑な工程にはマニュアルなどなく、人から人への技術の伝承によって成り立っています。間隔が空いてしまうと記憶が薄れてしまうことへの危機感から、山鉾を建てることにしたと聞いています。
そして今年、ようやく本来の形での開催が決まりました。気がつけばほぼ毎年のように出かけ、厳しい暑さを乗り切るために祇園祭は欠かせないような気持ちになっていたところなので、再開は我が事のように嬉しく、やっとという思いで祭の日を待ちわびていました。私のような一観衆でもそうなのですから、関係者の方たちの思いの強さはいかばかりかと。
十八時に四条通が歩行者天国になると同時にご覧のような状態で一方通行。手前に見えるのが月鉾、その先が函谷鉾です。
人の流れに従ってさらに東に進むと、四条烏丸の交差点の先には、巡行の際に先頭を行く長刀鉾が見えてきます。
今年はまだ上がることができませんが(といっても長刀鉾は女人禁制)、いつも通りの祇園囃子が聞こえてくると祭気分が盛り上がります。
前祭(十四日~十七日)に参加する鉾町は、四条通周辺とその南側に集中しています。
こちらは四条通から少し北に入った西洞院通にある蟷螂山。山の上に乗せられた蟷螂のからくり人形が人気ですが、それと引けを取らない人気者が蟷螂のおみくじです。蟷螂がおみくじの玉を運んできてくれるというもので、長い行列ができていました。
翌日の巡行で山を飾る胴懸や見送り幕がお披露目されています。こうした懸装品を間近で見ることができるのも宵山の楽しみの一つです。
上の胴懸は左部分のもので、羽田登喜男氏作、鴛鴦が群れ遊ぶ「瑞苑浮遊之図」。
こちらも羽田登喜男氏作の「瑞苑飛翔図」。平成三年に新調されたそうです。蟷螂山は小田原の「ういろう」と縁があります。東海道を歩いた際の立ち寄り先として以前投稿していますので、ご関心がありましたらそちらもご覧ください。
四条通の西には四条傘鉾。
巡行の際、子供たちによる棒振り踊りが奉納されるのが特徴で、宵宮でも踊りが披露されました。
四条傘鉾は元治元年(一八六四)の大火で衰退し、明治四年(一八七一)を最後に祭から姿を消してしまいます。それから百十四年後の昭和六十年(一九八五)に絵画資料などを元に傘を復活せますが、踊りについては復活は容易ではなく、滋賀県甲賀市土山の瀧樹神社に伝わるケンケト踊りを参考に復元されました。
ちなみに下が瀧樹神社で行われるケンケト踊りの様子です。都から伝わった風流踊りがいまも鈴鹿山脈の麓で受け継がれています。こうした風流踊りは近江国の各地でいまも行われています。
傘の形をしたものに、もう一つ綾傘鉾があります。鉾町は四条通の南、綾小路で、ここでも棒振り踊りが奉納されます。
先日投稿した今宮神社では、御霊会の際に人々が綾傘を先頭に風流の装いを凝らしお囃子に合わせて唄い踊ったことに起源があると伝わるやすらい祭が行われています。祇園祭の四条傘鉾や綾傘鉾もこれと同種で、踊りやお囃子に囃されることで御神霊が移動するということなので、傘と踊りは切り離すことができません。祇園祭における二つの傘は、山鉾が出来る以前の形態を伝えるものとして貴重です。
日が落ちると山鉾が幻想的に見えます。四条通をはずれると町屋もそれなりに残っていて、落ち着いた祇園祭の雰囲気を味わうことができます。冒頭の写真は四条通から二本南の仏光寺通にある木賊山。後祭にはこういった雰囲気のところが比較的多いのですが、前祭では貴重な一角かもしれません。
夜が更けるにつれ、鶏鉾でもお囃子に勢いが増していきました。昨年は閑散として鉾だけがそびえていましたが、今年は賑やかです。
翌十七日は三年ぶりの前祭山鉾巡行です。御池通でも観覧席の最後の準備に余念がありません。
次回は巡行の様子を。続きも是非ご覧ください。