かつて平安京の北には七野と呼ばれる野が拡がっていました。七つの野は一般的には内野、北野、平野、占野、紫野、蓮台野、上野を指し、それらは皇族や貴族の狩猟地や別荘地などに充てられていたほか、蓮台野のように葬送の地だったところもあります。
今宮神社があるのは七野のうちの紫野です。紫野という地名は染色や薬に用いる紫草が生えていたことに由来すると言われています。その範囲は大徳寺周辺の広範囲に及び、船岡山も含まれています。船岡山は平安京の中軸線(朱雀大路、現在の千本通り)の真北にある標高百十二メートルほどの岡で、都の葬送地でもありましたが、今宮神社が鎮座しているのはその船岡山からさらに五百メートル北にいったところです。
船岡山との位置関係から想像できるように、船岡山は今宮神社の創建と無関係ではありません。まずはそのあたりの歴史を繙いてみたいと思います。
今宮神社がある紫野の当地には、平安遷都以前から疫神がお祀りされていたと伝わります。上の写真で、主祭神をお祀りする本殿の向かって左に摂社の疫社がありますが、それが最初の疫神をお祀りしていたお社から続くもので、現在疫社ではスサノオノミコトがお祀りされています。
遷都後、京都盆地は都として発展する一方で疫病や災厄が頻発しました。そうした災いは無実の罪を着せられ亡くなった人たちの御霊によるものと当時は考えられ、魂を慰め鎮めるための御霊会が神泉苑や上御霊神社、八坂神社などで営まれるようになります。一条天皇の正暦五年(九九四)に都で疫病が流行した際には、紫野の当地にお祀りされていた疫神を二基の神輿に乗せて船岡山に安置し、悪疫退散を願う御霊会が行われました。さらに長保三年(一〇〇一)には疫神を船岡山から現社地に遷してお祀りし、御霊会が執り行われました。その際大己貴命《おおなむちのみこと》、事代主命、奇稲田姫命をお祀りするための社殿も設けられ、新しい社という意味で疫社も含めて今宮社と名付けられました。これが今宮神社の創建由来で、その後疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、今宮社の祭礼(今宮祭)として定着していきました。ちなみに今宮神社の祭礼としてはもう一つやすらい祭が有名ですが、これも御霊会の際に人々が綾傘を先頭に風流《ふりゅう》の装いを凝らしお囃子に合わせて唄い踊ったことに起源があると伝わります。やすらいは夜須礼とか安良居と書かれます。疫神は花の季節に飛散すると信じられており、疫神を乗せて飛び散る花を鎮めるということから、「やすらい」という言葉が生まれたようです。実際やすらい祭では傘の上に花を飾ってお囃子や踊りで厄神を傘の下へ誘い込み、お祓いされて鎮まるとされています。同様の祭は今宮社のほか上賀茂神社などでも行われていますが、今宮社のやすらい祭は華美に過ぎたことから平安末期に禁止されたこともあります。
このように御霊会に起源を持つのが今宮神社です。応仁の乱で社殿が消失しますが足利義尚によって再建され、文禄二年(一五九三)には秀吉によって御旅所が再興されるなど、一般民衆から武家、朝廷まで多くの人の信仰に支えられ発展していきました。
現在ある社殿のほとんどは再建ですが、ずっしりとした重みを感じるのはこの土地に根ざした歴史によるのかもしれません。
こちらは楼門。大正十五年(一九二六)の再建です。
楼門をくぐり境内に足を踏み入れると、天高く聳える松に眼が留まります。その根元にも小さな松が植えられていますが、説明によるとこれらの松は琵琶湖畔にある日吉大社の摂社である唐崎神社の霊松を遷したものとのことです。舒明天皇の時代(六五五)に日吉大社の初代神職が当地に居住し松を植え、後の天智天皇の時代に日吉大社の西本宮に大和の大神神社から神様が遷られる際に、その松に影向したことから、以後神聖視されるようになったとあり、興味を惹かれます。日吉大社の西本宮の御祭神は大己貴神で、平安時代に今宮神社でお祀りされるようになったのも大己貴神、大神神社の御祭神大物主大神の和魂とされる出雲系の神様ですが、このような伝承の背景に大己貴神を信奉する出雲系の人の足跡が見え隠れしているように思います。それについては後でまた触れることにして、境内奥へと進みます。
こちらは舞殿形式の拝殿。元禄七年(一六九四)のものです。拝殿からも見えるのが、冒頭の写真にある幣殿でその奥に本殿があります。幣殿、回廊、本殿はいずれも明治三十五年(一九〇二)年の再建です。
境内にはいくつもの末社がありますが、その中で当社創建前、遷都以前の時代の様子をうかがわせるのが若宮社です。
若宮社では中央にイザナミノミコト、向かって右に歴代斎王の御霊、左には平安初期に薬子の変で処罰された藤原薬子や藤原仲成の御霊がお祀りされています。中央の御祭神であるイザナミノミコトはかつて洛北の鷹峯にあった愛宕社を愛宕山(当時は嵯峨山と呼ばれました)に遷す際に、その御分霊を当地にも遷し、疫社相殿の若宮神としてお祀りされたと伝わります。疫社から切り離してお祀りされたのは、長保三年に大己貴命《おおなむちのみこと》、事代主命、奇稲田姫命の三柱をお祀りし今宮社となったときのようです。ちなみに鷹峯にあった愛宕の神様が愛宕山に遷されたのは天応元年(七八一)のことで、和気清麻呂が愛宕山に白雲寺を建立しそこに愛宕大権現としてお祀りしたと伝わります。愛宕という名は火の神であるカグツチの出産の際に伊弉那美神を焼死させたことによる仇子に由来するという説もありますが、背面、側面を意味するアテに由来するという説もあります。鷹峯は山城国と丹波国の境に近いところにあったので、都の背面を守る神をお祀りするということもあったでしょう。
なおここには歴代斎王の御霊もお祀りされています。薬子の変の後、嵯峨天皇は戦勝を祈願して有智子内親王を賀茂斎王とし紫野に座所を置かれました。これが賀茂斎院の始まりで紫野斎院とも呼ばれました。建暦二年(一二一二)まで続きましたが、廃絶にあたり縁の地であることからここにその歴代御霊がお祀りされるようになったとのことです。
また若宮社に近い石段上の高台には月読尊をお祀りする月読社があります。月読尊はスサノオミコトの兄にあたる神さまです。境内ではどちらかというと目立たない場所に鎮座していますが、高いところにお祀りされていることから、本殿の御祭神を見守っているような気もします。
愛宕の神様がお祀りされていた鷹峯も、後に御分霊がお祀りされるようになった今宮神社も、古代愛宕《おたぎ》郡だったところです。以前投稿した毘沙門堂で触れたように、古代の愛宕郡には出雲国からの移住者が居住する出雲郷と呼ばれる一帯がありました。場所は賀茂川の西、加茂街道沿いで、現在も出雲路という地名が残っていますが、紫野からも近い場所です。今宮神社の御祭神である大己貴命《おおなむちのみこと》、事代主命、奇稲田姫命も、疫社でお祀りしている素戔嗚尊もすべて出雲の神々です。具体的なことはわかりませんが、出雲郷の人たちが当社の創建に何らかの関わりを持っていたことが伺えます。
東門を出ると、道の両側に今宮名物あぶり餅のお店があります。向かって左が「一和」(一文字屋和輔)、右が「かざり屋」。「一和」は長保二年(一〇〇〇)創業といいますから今宮神社とほぼ同じ頃で、悪疫退散を願い竹を用いて餅をお供えし祈願したことに始まるとか、初代が香隆寺(上品蓮台寺)の名物だった餅を今宮神社に奉納したことに始まるとか。いずれにしても今宮神社と密接に関わりながら、ほぼ同じ時間を経て現在に至っています。かざり屋のほうは、一和よりは新しいようです。
あぶり餅は餅を一口大にちぎってきなこをまぶし、竹串に刺して炭火で焼いて焦げ目がついたところで仕上げに白味噌のたれに付けたもので、香ばしくとても美味しいです。
この光景を見ていると、心が和みます。次回は二店舗で食べ比べてみようかと…。
気がつけば七月まであと数日です。七月といえば祇園祭。祇園祭も八坂(祇園)の御霊会に起源を持ちます。この猛暑を吹き飛ばすのに祇園祭の力は欠かせませんが、今年は三年ぶりに山鉾が巡行しますし、鷹山も百九十六年ぶりに復帰するとあって、いつも以上に熱い祇園祭になりそうです。