大阪北部、箕面の滝に通じる滝道には紅葉が多く、新緑の頃や色づく秋には大勢の人が訪れますが、夏もまたよいものです。暑い時期は人も少なく静かですし、垂水神社のところで触れた歌ではありませんが、ここにも「石走る」光景があちらこちらにあって、見ているだけで涼やかか気持ちになります。先の長雨の影響で上流から流れ下る水の勢いもいつになく激しく、岩に当たっては砕け、渦巻き、躍動する水の動きに眼を奪われます。
箕面の滝はこうした流れを見ながら滝道を四十分ほど歩いた先にあります。下は数年前紅葉の季節に訪れたときのもの。今回は滝までは行きませんでしたが、太い帯のように一直線に落ちる姿は力強く、人なら実直と言いたいようなその風貌にはいつも魅せられます。
箕面の滝は落差が三十メートル、幅は五メートルほどあります。北摂山系の一つ、石堂ヶ岡付近が水源で、滝を経たその水は箕面川となって南西方向に下り、伊丹空港近くで猪名川に合流し、大阪湾に注ぎますが、箕面川は古代流域で稲作を行う人たちにとって恵みの水をもたらす重要な川でした。箕面川やその源にある滝が、自分たちの暮らしや命を守り司る存在として神聖視されていくのは自然なことでしたし、水は山からもたらされますから、同時にそこには山の神に対する信仰も芽生えました。
古代人が信仰した水の神は、やがて姿形を持つものとして蛇や竜神に置き換わったり、あるいはそれらが神の使者と考えられるようになりました。箕面の滝にも竜神が棲む竜穴があると信じられてきました。現代の私たちにとって憩いの場になっている箕面の滝は、古代においては竜神の棲む神聖な場所だったのです。瀧安寺(当初は箕面寺と言いました)は、そうした古代の水神信仰に発する古刹で、信仰の変遷、歴史を伝えています。
瀧安寺は箕面駅から北に一、二キロほどの箕面川沿いにあります。箕面川に沿った滝道と呼ばれる遊歩道を歩いていくと、しばらくして石の鳥居が見えてきます。これが瀧安寺の入り口です。現在は本山修験宗のお寺ですが、今なお神仏習合を色濃く残しています。鳥居の横の石標に弁財天瀧道とあるように、弁財天を御本尊としています。弁財天はインドにおける川の女神が仏教に取り入れられ、仏教の守護神となったものですが、日本では日本古来の神と複雑に習合したため、密教の曼荼羅でその姿を見たかと思えば、神社でもお祀りされることもあります。近世には七福神の一神にもなったこともあって、よりその信仰は広まりました。日本ならではの神仏習合の象徴のような弁財天ですが、明治の神仏分離政策で弁財天を祀るところは神社に改変されたものが多い中、ここではお寺として弁財天をお祀りしています。
鳥居をくぐると、その先には山門があります。ここが神仏習合を残した聖地であることは、鳥居と山門が共存していることからもうかがえます。
この山門は、江戸時代の寛保四年(一七四四)に御所の御門が下賜されたものだそうです。瀧安寺は古くから天皇や将軍から祈祷寺として信仰を集めてきました。それについては後で触れることにして、まずは山門をくぐって境内へ。
正面には観音堂。平成十四年(二〇〇二)再建の新しい建物ですが、ここには如意輪観音像(国の重要文化財)を中心に、阿弥陀如来像、空海、圓珍、千観の三上人像がお祀りされています。右に見える朱色の橋を渡った箕面川の対岸には、鳳凰閣と客殿があります。この二つの建物は、平成三十年(二〇一八)の台風で大きな被害を被り、長らく修繕工事が行われていましたが、このたびようやく完成したところで、秋には公開されるようです。
観音堂の奥に進むと、二の鳥居。その先には山伏が採燈大護摩供を行う大護摩道場があります。この鳥居をくぐると木立が急に色濃くなり、深山に分け入ったような雰囲気に包まれます。
長い石段を上がると、役行者の供養塔が並んでいます。役行者は七世紀、飛鳥時代に生きた修験道の開祖とされる呪術者、山岳修行者で、各地にその足跡を残していますが、瀧安寺の前身である箕面寺も、役行者による開基と伝えられています。
寺には縁起が記された「箕面寺秘密縁起」三巻が伝わっています。それによると、白雉元年(六五〇)霊山を求めて箕面にやってきた役行者は箕面の坂本で老翁に出会い、山奥には滝があり竜神が棲んでいること、当山は自分の領地だが伽藍を建て仏法を興隆するために役行者にここを与えると告げられたとか。老翁の教えに従い山中に入っていった役行者は、滝壺で修行中に龍樹菩薩(二世紀インド大乗仏教を確立した僧)にまみえ、伝法灌頂を受けて伽藍建立を命じられます。そこで滝本に不動明王をお祀りすると同時に、草庵を建て、自ら龍樹菩薩と弁財天女を造りお祀りしたということで、それが箕面寺の始まりなのだそうです。
鎌倉時代の『元亨釈書』にも役行者が箕面の滝で龍樹菩薩を拝し、伽藍を築いて箕面寺と称したと、同様のことが伝えられています。
ちなみに上の写真は、役行者が老翁に出会った箕面の坂本とされる場所です。箕面駅の東百メートルほどのところにあって中ノ坂と呼ばれていますが、古代はここが聖域への入り口だったそうです。箕面街道と巡礼道が交差しているのと同時に、箕面川の水を四つの村に分ける分水池にもなっています。
行者が山中で老翁に出会い、土地を譲ってもらうという話は、ここに限らず各地の山岳寺院の創建由来でよく耳にします。これは外来者が新たな信仰を携えやってきて、仏法興隆のために伽藍を建てようとしたときに、その土地(地主神)がそれを受け容れたということを示すために造られた話です。箕面の滝は元は水神信仰の土地です。そこに修験道が入ってきたことを伝え表すものとして、役行者の話が生まれたのではないでしょうか。とくに役行者が自ら龍樹菩薩と弁財天を刻んでお祀りしたと伝わるところに、水神、あるいは竜神との繋がりがうかがえます。
役行者といえば、以前投稿した洛北の志明院や、吉野の天河大弁天神社、龍泉寺などの開基伝承にも見えますし、葛城山や熊野、吉野など、山深い至るところにその足跡が伝えられています。こうした場所で役行者の名前を眼にするたび、その行動範囲の広さに驚くのですが、それはつまり呪術力に長けた役行者を祖師と仰ぎ山中で修行を重ねる人たちの勢力が拡大した証で、国家仏教とは別の、山岳信仰や民間信仰などが混淆した仏教が、こうした山中で広まり発展していったということでしょう。箕面寺が役行者によって開かれたということが史実であるかどうかはわかりませんが、箕面の滝や山が修験道の行場であったことは確かです。当寺はそうした行者集団によって始められたのかもしれません。ちなみに役行者は箕面の滝からさらに奥の天上ヶ岳で入寂したと伝わり、山頂には供養碑や像がお祀りされています。
瀧安寺の境内に話を戻しますと、こちらは行者堂の拝殿です。後ろには奥殿があり、役行者と不動明王、蔵王権現がお祀りされています。
行者堂の先に見えるのが三の鳥居で、その奥に瀧安寺の本堂にあたる弁財天本堂があります。ここに御本尊である弁財天(ご開帳は六十年に一度)がお祀りされています。後水尾天皇の勅命で明暦二年(一六五六)に建立されたものだそうで、神社の拝殿のような造りです。役行者が弁財天と共に自ら造ったという龍樹菩薩はどうなってしまったのかと思いますが、龍樹はインド大乗仏教の興隆者で、密教の根本経典を授かったという伝説があることから、当寺が修験道の聖地となるにあたって、修験密教との関わりと伝えるために草創由来に加えられたものかもしれず、弁財天の人気もあって、いつのまにか影を潜めてしまったということでしょうか。
山門や弁財天本堂の由来からもうかがえるように、瀧安寺は歴代天皇から篤く信仰されました。応和二年(九六二)には村上天皇の勅命で、雨乞いの祈祷が行われましたし、南北朝時代には隠岐に流された後醍醐天皇の帰還を願って祈祷が行われたとか。祈祷の甲斐あって、後醍醐天皇は京都に戻り建武の新政を開始したということで、後に後醍醐天皇はその御礼として箕面寺に瀧安寺という名を賜ったということです。
弁財天はインドにおけるヒンドゥー教の川の女神だったものが、日本に伝わると自然信仰や民間信仰、山岳信仰、仏教などと混淆し、やがて日本独自の信仰になっていきました。山、滝、川すべてが揃った箕面は弁財天信仰が根付くに相応しい土地だったようです。
現在弁財天は、水の女神であるのと同時に、知恵、学問、音楽、長寿、財宝などを授ける万能の女神として信仰を集めています。こんなに大盤振る舞いでいいのだろうかと思ってしまいますが、これは多くの人に信仰されたからこそ、さまざまな願いがかけられ、それが実現すると、今度はそれがご利益としてまた人々にもたらされるという信仰の相乗効果によるものかもしれません。私も遠慮せず、あれこれお願いしてまいりました。一つでもそれが叶うといいのですが。
弁財天本堂でお詣りを済ませると、山側に祠が三つあるのが眼に取りました。向かって右は熊野三所権現、中央は箕面山神社、左は白龍大明神ですが、箕面山神社と白龍大明神はまさにここの信仰の源にあたるものです。このように当地における信仰の起源とその移り変わりがわかるのは、神仏分離に影響されなかったおかげで、今となってはこのような場所は大変貴重に思えます。