五世紀になると、豊中台地では勢力が東に移動していきました。東群には前方後円墳二基、円墳六基、方形墳一基が確認されていて、そのうち前方後円墳一基、円墳二基が現存しています。
桜塚古墳群の東群を代表する古墳がこちらの大塚古墳(国指定史跡)です。現在は古墳を取り囲み公園として整備され、明るい雰囲気もあって子供たちに人気の遊び場になっています。
大塚古墳は五世紀初めのものと思われる円墳で、昭和初期に土地の区画整理のため北と西の裾部が一部削られたそうですが、大方残っています。円墳の直径は五十六メートル、高さは八メートル以上の三段構成で、幅十二~十三メートルの周濠を持ち、墳丘最下段の平坦面には埴輪が並んでいたと考えられています。
墳頂部からは三基の粘土槨が発見されています。三基は南北を軸に、東側に一棺、西側の同じ墓壙に二棺が並列していましたが、西側は鎌倉時代の盗掘により大きく破損しています。写真下、手前の四角い部分が東側の粘土槨、奥が西側の粘土槨を示しています。ここは公園ですから遊ぶのは自由ですが、墳頂で中学生が走り回っていたのには少々驚きました。
それはともかく、この東側の棺から下のように鎧、冑、刀剣、鏃といった多くの鉄製の武器や武具が発見されています。文字だけでは出土品の価値やその迫力が伝わりませんので、『新修豊中市史』に掲載されている写真をさらに写真に撮らせていただきました。鎧や冑は、古市・百舌鳥古墳群のものと同じ革綴じ技法という当時最先端の技法で作られているうえ、鎧に襟が付いているというのは全国的にとても珍しいのだそうです。五世紀は倭の五王の時代です。古市や百舌鳥に次々と造られた巨大古墳が当時の大王の勢力を物語っていますが、豊中の大塚古墳もこうした埋葬品から見て、大王家と関係を持っていたことが推測されます。これら大塚古墳の出土遺物は国指定重要文化財に指定され、曽根にある芸術文化センター内の収蔵庫に保管されているようです。
大塚古墳の墳頂から南を見ると、もう一つ古墳が確認できます。これが現存する東群の二つ目の古墳。前方後円墳の御獅子塚古墳といいます。
こちらも国指定の史跡ですが、御獅子塚古墳からも下のように大塚古墳同様に革綴じ技法で作られた鎧や冑、槍、鉾、鏃など見事な鉄製の武具や武器が出土しています。(こちらの写真も『新修豊中市史』から撮らせていただきました。)
大塚古墳と御獅子塚古墳から見つかった鉄製の武具・武器はいずれも組み合わせとして整ったもので、写真を見たたけでも圧倒されますが、実際これだけの出土品は国内でも有数で、現存していない古墳からも同様のものが出ており、東群から出土した甲冑の数は、同じ時代大阪南部に築造された古市・百舌鳥の巨大古墳群で出土した数に迫るほどだといいますから、これは驚くべきことです。ちなみに東群で見つかった武具や武器は古市・百舌鳥古墳群の勢力の下で造られたものと考えられるそうです。(参考『古墳時代の猪名川流域』)
猪名川流域において古墳時代中期の古墳が残る、もう一方の伊丹台地の古墳群(猪名野古墳群)からは、こうした鉄製の武器・武具が出ていないのだそうです。猪名川の東に位置する豊中台地と西に位置する伊丹台地とでは、軍事的な状況が異なっていた、つまり豊中台地の方は古市・百舌鳥古墳群の勢力と結び軍事的に強化する必要があったのでしょう。
隣接する小学校のプール建設の際、後円部西側の一部と前方部の周濠部分が失われましたが、主要部は残されています。こちらは柵があり中に入ることはできません。手前が北、見えているのは後円部になります。
古墳の全長は五十五メートル、後円部の直径は三十五メートル、高さ四メートル、前方部の幅が四十メートル、高さ四メートル、幅七メートルの周濠がめぐらされ、二段構成の二段目だけに葺石、平坦面に円筒埴輪や朝顔形埴輪が置かれていました。下は復元されたものです。
御獅子塚古墳でも異なる時代の粘土槨が二基確認されていて、鉄製の武具や武器が出土したのは古い方の棺からです。写真はありませんが、新しい方の棺からも銅製の鏡や鋲留め技法の甲冑、刀剣などが出土し、棺の外からは馬具や革製の楯も出ています。
大塚古墳にしろ御獅子塚古墳にしろ、写真とはいえ鉄製の武具・武器の精巧な作りに心底魅せられましたし、これらを通じ被葬者の存在が身近に感じられます。御獅子塚古墳の出土品は重要文化財には指定されていないようですが、大塚古墳の出土品と共に収蔵庫に保管されているのでしょうか。
東群に現存する三つ目の古墳は、御獅子塚古墳から南東に二百メートルほどのところにあります。
南天平塚古墳といい、こちらも国指定の史跡に指定されています。二段構成の円墳ですが、昭和十年代の道路建設で古墳の四分の三が消滅しています。形からいって、現存しているのは円墳の北西四分の一と思われます。(写真手前が北になります)円墳の直径は約二十メートル、高さは六メートルほどで、幅七メートルの周濠で囲われており、墳丘の南東部には円筒埴輪で囲われた方形の造出しという平坦面がありました。
南天平塚古墳にも二基の木棺があり、木棺からは銅製の鏡や鉄製の武具・武器類が出土していますし、棺の外からは馬具や革製の楯も出ています。南天平塚古墳は大塚古墳や御獅子塚古墳に続く五世紀末から六世紀初めにかけてのもので、大塚古墳や御獅子塚古墳に比べ規模が小さくなっています。ですが、豊中台地における古墳の規模が次第に小さくなってはいても、古墳に副葬される武器・武具が縮小されることはなく、むしろ増えているということなので、この地域の軍事的な重要性が増していったということなのかもしれません。
豊中台地に首長墓が次々に造られた時代は、桜井谷で須恵器が盛んに造られた時代と重なります。古代史の表舞台に出てくる場所は大抵決まった同じ場所で、豊中がそこに名を連ねることはありませんが、豊中に残されたすばらしい歴史遺産は、古代世界をもっと広い視野で捉えなければと無言のうちに訴えているように思えます。