先日投稿した池田の古墳(2)で、五月ヶ丘古墳の陶棺は近くの桜井谷で焼かれたのではないかということを書きました。桜井谷というのは、大阪府の北部に拡がる千里丘陵の西を流れる千里川によって造り出された谷地形に由来し、かつて一帯を桜井谷村といいましたが、現在は学校などにその名を残すのみとなっています。その桜井谷を含む千里丘陵に、古墳時代大規模な須恵器の窯が築かれていました。千里古窯跡群といい、当時我が国最大の窯だった大阪堺の陶邑古窯跡群に次ぐ規模でした。千里丘陵は茨木市、吹田市、豊中市、箕面市にまたがる広範囲な丘陵ですが、窯が築かれたのは吹田と豊中で、吹田市側にある窯跡群を吹田窯跡群、豊中市側にあるものを桜井谷窯跡群と呼んでいます。(吹田窯跡群は、以前投稿した古志部神社で触れていますので、関心のある方は是非そちらもご覧ください。)
池田の古墳を訪ねて以来桜井谷窯跡群に関心の眼が移り、関連の書籍にあたり古墳時代の須恵器生産の様子に思いを馳せる時間が増えました。すると私がいまこうしてパソコンを打っているこの場所も、桜井谷窯跡群の範囲に含まれていることがわかり、ひょっとすると窓の外に見えている丘陵の尾根筋を須恵器を運ぶ人たちが歩いていたかもしれないし、そこに未発掘の窯が眠っているかもしれない、あるいは近くの丘陵から立ち上る煙も見えたかもしれない、と、気持ちは一気に古墳時代に引き寄せられ静かな興奮に包まれています。
『新修豊中市史』によると、桜井谷窯跡群の調査は、明治時代に大阪造幣寮(現大阪造幣局)の化学兼冶金技師として招聘されたイギリス人のウィリアム・ゴーランド(William Gowland)によって始められました。その際ゴーランドは、桜井谷窯跡群の北西に位置する太古塚窯跡で発見された陶棺について論文で写真入りで紹介し、その後陶棺は大英博物館に収蔵されています。(ゴーランドは黎明期の日本の考古学にも貢献した人物ですが、太古塚のものに限らず発掘した資料をイギリスに持ち帰っています。)その陶棺は当時の日本の研究者の間でも大いに話題になったようで、各氏が論文を発表、そうしたことが後の時代の調査研究の発展に繋がっていきました。ゴーランドが紹介した陶棺は底に円柱状の脚が二列に配された蓋付きの家の形をしたもので、池田の五月ヶ丘古墳で見つかったものとよく似ていますので、五月ヶ丘古墳の陶棺も桜井谷の太古塚窯跡に由来するのではないでしょうか。ちなみに五月ヶ丘古墳で発見された陶棺は蓋が失われていました。
太古塚窯跡は豊中市北西の永楽荘にあり、太古塚古墳群と重なります。東には千里川。傾斜地に築かれた古墳群は、七世紀前半ごろのものと思われる小円墳で、横穴式石室に陶棺というのが特徴です。窯跡と同じエリアに造られた古墳ですので、須恵器を生産する集団の首長のものと思われますが、あいにく古墳は残っていません。
上は永楽荘の坂道を歩いている途中で、南西方向(千里中央方面)を振り返ったときのもの。いったん下ってまた奥に向かって上がっていく地形がわかると思います。
こういう永楽荘の町の一画で、昭和五十二年に大変状態の良い窯跡が見つかりました。冒頭と下の写真がそれで、場所は永楽荘四丁目、南東向きの急な傾斜地に窯が造られたことがわかります(2-23号)。現在は写真のように埋め戻され整備されていますが、全長約十三メートル、幅一、二~二、五メートル、高さ一、二メートルから二メートルにもなる規模の大きな窯で、内部には土器などが窯詰めの状態のまま残されていたそうです。出土した須恵器の状態もよかったことから、焼成の最終段階で天井か壁が崩壊し、そのまま放置されたのではないかとのこと。こうして保存されているだけでもありがたいことですが、発掘当時の様子が写真などでわかるようになっているとよりありがたいことです。
さて千里川の西から東に移動すると、冒頭の写真の窯跡から直線距離にして八百メートルほどの北緑丘団地内にも、二つ窯跡があります。これらは団地建設に伴い昭和五十一年に調査した際に見つかったもので、下の写真は標高六十メートルほどの斜面を利用して造られた窯(2-19号)で、九、五メートルほど残存していたそうです。ここからは蓋杯や鉢、甕、円面硯などが出土しています。
こちらの二枚は2-24号で、先ほどの19号窯跡から百メートルも離れていない場所にあります。こちらは調査により、最初に造られた窯の天井部が崩落した後、同じ場所に再度構築されていることがわかったそうです。焚口から八、五メートルほどが残存していて、全体としては九、五メートルほどの大きさのものだったようです。ここからも蓋杯や有蓋高杯、壺、甕などが出土しました。
二つの窯が見つかった北緑丘団地は、千里川を挟んだ丘陵地帯を切り崩しで造られたもので、総戸数千戸以上、高層マンションが林立し一つの町のようになっています。二つの窯は最低限残したという印象。かつての丘陵の雰囲気を感じられる中に保存されていたらと思いますが、開発においてそういうわけにはいかないのでしょう。
北緑丘から南東に二キロほどの島熊山にも窯跡が残っています。島熊山は万葉集にも詠まれた歌枕の地ですが、開発によって当初の姿が失われ、一部の緑地を除き一見してすぐに山とわかる状態ではなくなりました。緑地は千里丘陵を横断するように建設された中国自動車道や大阪中央環状線で南北に分断されてはいるものの、そこに息づく植生はかつての千里丘陵の姿を伝えるもので、野鳥や貍などにとっても格好の住処です。がさごそとしきりに音がするので、そちらに眼をやると、猫とは明らかに違う丸い茶色の生き物がさっと茂みに入っていくのを見たことがありますし、雉に出くわしたこともあります。個人的にも心寄せることの多い島熊山ですが、ここにも窯が築かれていました。窯跡が見つかったのは新千里南町、道路で分断された南側の緑地内です。(永楽荘から千里中央方面を見た写真で、タワーマンション手前に見える地帯が、島熊山の北側の緑地です。)
島熊山窯跡の表示の方向に歩いていくと、程なく竹林が現れ、鉄柵が見えてきます。この囲いの中が窯跡です。
窯が築かれたのは標高八十五メートルほどの丘陵の頂部です。島熊山窯跡は正確な調査をしていないようで、窯の大きさなど詳しいことはわかりませんが、東の斜面(下の写真が東から窯跡を見た様子です)には灰原(窯にたまった灰を掻き出した場所)と思われる層があるそうで、周辺からは蓋杯、有蓋高杯、練鉢、壺、甕なども見つかっています。破片の一つでも転がっていたらと目を凝らすも、落ち葉も多くそれらしきものは見当たりませんでした。周囲の自然も含めた状態で窯跡が保存されているという点で、島熊山窯跡は桜井谷窯跡群の中では最も理想的に思えます。
島熊山窯跡から南西に一、五キロほどの上野にも二カ所の窯跡があります。
一つは上野青池南畔窯跡。上野小学校正門付近の斜面にあったとのこと。
もう一つは小学校の向かいにある青池の北(写真奥が北)にあった上野青池北畔窯跡ですが、現在は見る影もありません。そもそもこの青池は、島熊山に続く丘陵の谷の部分を堰き止めて造られた溜め池ですから、古墳時代にはなかったものです。東向きに下る地形ですので、窯も北東方向に造られていたようで、池の北東に多くの須恵器を含む灰原があったそうです。ブルーシートに覆われた新築工事現場付近が窯跡のようです。
このように、北から南に移動しながら窯跡をご紹介しましたが、須恵器の生産は南から北に移動していったようです。というのは、須恵器の供給先である集落や古墳は千里川の下流域とそれを見下ろす豊中台地にあったためです。運搬に便利な千里川の下流に近い場所でまずは生産され、やがて大量生産が必要になると、それに相応しい条件の整った千里川の東岸北寄りの丘陵中心部に移動していったということのようです。大量生産に向いた条件とは、須恵器に向いた陶土や焼成用の燃料となる木材が豊富にあり、地盤が堅固で窯を安定して維持できることで、千里丘陵はそれを兼ね備えていました。とくに断層から陶土が容易に採取できたことから、窯跡の分布も断層線に沿うように残っているというのは、とても興味深いことで、そういうことを感知する能力には改めて驚かされます。
人口増加に伴い開発するのは当然で、現代人の暮らしのために過去の遺産にばかり眼を向けているわけにはいかない…。ここ数十年はこうした風潮で丘陵や山が削られ次々に町が生まれました。桜井谷も例外ではありません。調査時点ではまだ丘陵の名残を多く残していたところも次第に開発が進み、いまや完全な市街地に変貌しています。桜井谷では四十基以上の窯があったと推測されていますが、存在が確認されている窯跡のうち現存しているのはごくわずかで、大半は住宅が建ち並び跡形もありませんし、そこに古墳時代の窯があったことすらわからない状態です。それでも『新修豊中市史』に付属している遺跡分布図を眺め、ここに取り上げ場所以外にも、たとえば現在高速道路や環状線が通る少路の交差点や近くの羽鷹池付近にも、ロマンチック街道と通称されている街道から少し東に入った坂にも、あるいは最近大きなマンションが建った少路の高校跡地にも、古墳時代に窯があり、須恵器が焼かれ、千里川を利用して運ばれていった…、そういう古墳時代の五世紀後半から六世紀後半にかけての歴史の一端を現在の風景に重ね見ることで、普段見慣れた町並が特別なものに思えてきます。歴史を知る喜びはそういうところにあるのです。
余談ですが、豊中のロマンチック街道は、少路の交差点から牧落の交差点までの二キロ半ほどの県道の通称で、洒落たお店が点在することからそう呼ばれるようになったのだと思いますが、こうして古墳時代の窯跡の存在を辿っていると、訪ねた遺跡の多くがロマンチック街道周辺に点在していることが実感され、古代への憧憬が連なる道という意味でまさにロマンチック街道だなと思っているところです。