新しい一年が始まりました。今年は今まで準備してきたことが少しずつ具体的になる予定ですし、私自身も白地図を更に色づけすることができたらと思っています。心身共に引き締まる思いのする一月一日、自らを鼓舞する意味もあって大阪を一望できる交野山に登りました。
交野山は大阪と奈良の境を南北に走る生駒山地の北にある標高三四一メートルの山で、大阪府北東の交野市倉治にあります。交野市の交野は「かたの」と読みますが、山のほうは「こうの」といいます。地名としての「かたの」は大宝二年(七〇二)に遡り、片野、肩野、加多乃など様々に表記されてきました。麓の倉治は渡来人によって開かれ、彼らがもたらした養蚕や機織りによって繁栄、壬申の乱で大海人皇子に味方した功績を受け賜った姓が交野忌寸ですので、そこからも交野の歴史の古さがうかがえます。一方山の方は平安時代になって修験道が盛んになると、葛城北峯(生駒山系)の宿(修験道の霊所)十七ヶ所の一所として知られ、古書には甲尾、鴻尾山、交野尾などと記されていることから、もともと「こうの」だったものに、交野の字を当てたということのようですが、地元では神の山と書いて「こうのやま」と読むこともあったとか。
その交野山の山頂に観音岩という巨大な磐座があります。高さはおよそ二十メートル、山頂からせり出す巨巌の下は断崖絶壁。皆さん身軽に岩の上を歩き、ぎりぎりのところまで行って下を眺めていますが、私は急に高所恐怖症のスイッチが入ってしまい岩の先端からの見事な眺望を愉しむことができませんでした。やむなく岩の周辺からとなりましたが、手前には広大な大阪平野が拡がり、南にはあべのハルカスや淡路島、次第に北に視線を移すと梅田のビル群、太陽の塔のある万博記念公園、さらに北には石清水八幡宮や比叡の山並まで、大阪とそこを取り巻く周囲の山々を一望できましたし、後ろを振り返れば京田辺方面も見えます。ちなみに前回投稿した箕面の如意谷も視界に入っています。
観音岩からこれだけの眺望がきくのですから、当然麓からも岩を捉えることができます。この観音岩の北西およそ一、五キロのところに機物神社がありますが、鳥居の真正面に観音岩が見えます。(写真ではうまく写っていませんが…)
機物神社は天棚機比売大神をお祀りする七夕にゆかりのある神社ですが、機物の「はた」は秦氏の「はた」、つまりここは元々倉治を開いた秦氏が観音岩に祈りを捧げる場所だったのではないでしょうか。どのような祈りだったのかといえば、冬至の日この場所から見ると観音岩から太陽が昇るといいますから、太陽への祈りでしょう。観音岩のところに古代祭祀場址とあり、この岩の上で祭祀が行われたことばかりを最初考えていたのですが、麓から観音岩を見上げそこから昇る太陽に対し祈りを捧げる祭祀もあったと気づかされました。以前投稿した玉祖神社のところでも太陽信仰について少し触れれましたので関心のある方はそちらもご覧ください。
観音岩から昇る太陽、いつか実際に見てみたいものです。
ところで観音岩を横から見ると、四角く穿たれていますが、これは法華経が収められていた納経孔です。
鎌倉から室町時代にかけて、交野山には岩倉開元寺という山岳寺院がありましたし、観音岩のすぐ近くには三宝荒神をお祀りするお社もあり、巨巌を擁する交野山には各時代のさまざまな信仰が寄り集まっています。先ほどの納経孔は、寛文十年(一六七〇)頃、天台宗京都猪熊荒神別当の實傅という僧によるもので、實傅は観音岩側面に観音の種子「サ」を表す梵字を、近くの別の巨石には三宝荒神の種子「ウン」を表す梵字を、さらに観音岩から一段下の巨巌には大日如来の種子「ア」を表す梵字をそれぞれ刻み、寺の復興に努めたそうです。
上に見えるのは大日如来を表す梵字。三宝荒神を表す梵字は、お社の後ろの石に刻まれていたのかもしれませんが、あいにく確認しそこないました。同様に観音岩に刻まれた梵字も。やり残しがいくつか出てしまいましたし、岩倉開元寺跡への参道には石仏が点在しているようですので、機会を改め再訪してみることにします。ちなみに古代祭祀址の石碑の後ろに見える字は、近年のいたずらによるものでしょう。人の名前やアルファベットのような文字も見えました。磐座に遊びで字を刻むとは。歴史を知り、古代の人の思いに心を寄せることができれば、土地に残され受け継がれてきたものに敬意を払い大切にしようという気持ちが芽生えます。私のこの備忘録が、少しでもその一助になればいいのですが。
足下が揺らぐほどの冷たい強風に吹かれ、山頂に長居はできませんでしたが、こういう眺めは見飽きることがありません。眼下に広がる大阪を、今年も一つ一つ丁寧に訪ね歩きたいと思います。