高山寺、神護寺と三尾の名刹を巡ってきました。最後に訪れた西明寺はお寺の規模としては一番小さくこじんまりとしてしていますが、それだからこそ色づいた紅葉が小さな境内に寄せ集まったようなところがあり、紅葉ごしに見る建物も、室内から見る紅葉も、すべてが一体化しているように感じられました。
神護寺から来た関係で西から境内へ。頭を下げて歩かないとぶつかってしまいそうな紅葉のアーチをくぐります。こういうところも一体化して感じられる理由の一つでしょう。
紅葉のアーチの奥、突き当たりには聖天堂(冒頭の写真)、左を向くと聖天堂から渡り廊下で繋がっている本堂(写真下)があります。正式には表門から入りますので、本来ならまず正面に本堂を見て、それから右手に聖天堂となりますが、表門から入っていたらこの紅葉のアーチの下をくぐり損なったかもしれません。この日の西明寺の主役は、アーチの奥に照り輝いている一本。木の真下に入り西側から見ると冒頭の写真のような明るいオレンジに見え、本堂前の南から見ると下の写真のように赤が強く感じられます。
下の写真は東からの眺め。赤とオレンジの葉を西日が通過し、すべての色が溶け合っています。
さらに客殿の縁側、北からの眺めはこのようになります。
向きによって全く違う表情を見せてくれる一本の紅葉。十分堪能しました。
ところで西明寺は平安時代の天長年間(八二四~八三四)、空海の甥で十大弟子の一人だった智泉により神護寺の別院の戒律道場として開かれたことに始まると伝わっています。西明寺もまた平安時代の末には荒廃し、鎌倉時代の建治年間(一二七五~七八)和泉国槙尾山寺の我宝自性上人によって中興されました。和泉国の槙尾山寺は西国三十三所の第四番札所にもなっている施福寺のことです。施福寺は槙尾山の中腹にある葛城修験に発する山寺ですが、西明寺の山号である槙尾山は、和泉国の槙尾山寺から来ているのかもしれません。
正応三年(一二九〇)には後宇多法皇から平等心応院の号を賜り、神護寺から独立。戦国時代には戦火で伽藍が焼失、慶長七年(一六〇二)に俊正明忍律師によって再興され、現在に至っています。
西明寺の建物は江戸時代以降のもので、こちらの表門と本堂は五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進で建てられたそうです。
これまで何度か訪れたことのある三尾ですが、紅葉の時期に三つのお寺をゆっくりと拝観するのは初めてのことでした。高山寺、神護寺、西明寺は、それぞれに歴史が異なるようにお寺の趣きも異なり、同じような色付きの紅葉もすべて違って見えます。同じ木でも、午前中の光を浴びたときと、昼下がりとではまた違います。時間の移ろいと共に微妙に変化していく三尾の風景はいつまでも見飽きることがなく、願わくば月明かりに照らされた紅葉を静かに愛でたいという思いを抱きながら帰途につきました。