取材は好天を狙って出ることが多いため、撮りためた写真も青空を背景にしたものが中心になりますが、先日珍しく霧に包まれた風景を目にすることができました。
比叡山延暦寺の横川から南に四キロ程のところにある東塔と西塔地区を目指し、京都方面から車を走らせていたときのこと。ドライブウェイ入り口で突然の濃霧に視界が遮られました。本来なら進行方向右手にときおり琵琶湖が見える道も、このときは数メートル先も見えない状態でしたが、真っ白い霧の中をそろりそろり上がっていくうち、いつの間にか視界がきくようになり、京都府と滋賀県の境界にある登仙台展望台が見えてきました。霧に惑わされ方向感覚を失ってしまい、どの方角が見えるのかもわからないまま車を駐めて柵に近づくと、眼下は一面の雲海、その白い雲の海に青い山並が島となって浮かぶ実に幻想的な光景が拡がっていました。
風景を前に言葉を失うという経験はそうあるものではありません。輝くような陽の光を浴びた明るい風景や、まさにいまの時期各地で見頃を迎えている紅葉など、明るさを湛えた風景はどちらかというと言葉を引き出す力が強いようで、「きれい」とか「見事」とか、歓声を伴って声を発することが多いのですが、冒頭の写真のような風景はそれとは対照的で、言葉の生成を止めてしまうところがあるように思います。幻想的といってしまえば簡単ですが、その一言で片付くものではありません。垂れ込めた雲海の下や霧が吸い込まれていく手前の木々の根元には何があるのか、重なり合う山々の向こうにはどんな暮らしがあるのか…。ここが聖地比叡山であることに意識が向くと、この雲海に飛び込むように山々を駆け巡り修行した行者さんの姿が浮かんでくる…。霧に包まれた風景にかきたてられた想像力は言葉にまとまらないまま、頭の中を駆け巡ります。秘され隠された部分があることによって、より惹きつけられるということがありますが、雲海にたゆたう比叡山からの眺めがまさにそうで、山並すれすれに垂れ込めた雲と山の隙間がほんのり赤みを帯びまろやかな光が射し込んできたときなど、神々しささえ感じました。高野山は未訪ですが、霧に包まれた写真をよく眼にします。何度か訪れたことのある熊野でも、あるとき深い霧が垂れ込め畏れの感情を抱いたことがあります。ここ比叡山も東に拡がる広大な琵琶湖によって霧が発生しやすいのでしょう。聖地と呼ばれる場所は霧の発生と無縁ではないような気がします。
ちなみにこちらは西向き、京都市街が見渡せます。同じとき同じ場所からの写真ですが、まるで違う光景です。
名残惜しい気持ちで車に戻り、山上へ。東塔の根本中堂は大改修工事の真っ最中。荘厳な建物が建築現場のようになっていて、現実に引き戻されましたが、向かいの文殊楼へ通じる石段下で見事に色づいていた紅葉に慰められました。
霧が印象的だったのは西塔です。いったん上がっていた雨が、東塔を出るころまた降り出してきて、西塔に着いたときは辺り一面霞んでいました。
精霊が出てきそうな森を過ぎ、にない堂の下に来ると、お堂の朱色とその前に拡がる苔の緑の対比が印象的な光景が、まったく別のものに見えました。
写真のにない堂は常行堂(左)と法華堂(右)が廊下で繋がった修行のためのお堂。弁慶が廊下を天秤棒にしてお堂を担ぎ上げたという伝説から、にない堂と呼ばれます。浄土真宗の祖親鸞は常行堂の修行僧でした。
比叡山は高野山に比べ山が整いすぎていると言われることもありますが、霧にけむり静寂に包まれたこの雰囲気は創建当初から変わらないのではないでしょうか。西塔を開いた円澄、ここで修行をした親鸞。目をつむればその気配が感じられるような気がしました。比叡には霧がよく似合います。