かつて都の置かれた奈良や京都はもちろんのこと、大阪という土地もそれに劣らず歴史の宝庫です。そのことに気づいて以来、少しずつ取材の点を増やしています。いまはまだ白地図のような状態ですが、そこが点で埋まるころ何かまた大阪という土地について書くことができたらとささやかな願いを抱いています。そうした個人的な思いはさておき、ある場所を訪ねるとそこから芋づる式にここもあそこもと興味が拡がっていくおもしろさが大阪にあるのは確かです。大阪が歴史の宝庫である一番の理由として、大阪湾という外に向かって開かれた玄関口を擁していたということがあげられるでしょう。(若狭や敦賀で上陸し琵琶湖を経て京都や奈良へというルートも重要でしたが、いまは大阪に話を限りたいと思います。)
飛鳥時代孝徳天皇は難波に遷都し、大化の改新と呼ばれる政治改革をこの地で行い、その後断続的とはいえおそよ百五十年の間難波に都が置かれていたというのも、大阪の重要性を教えてくれます。難波宮跡については以前こちらのブログでも取り上げました。古代の大阪湾周辺の地形など地図も載せていますので、ご関心のある方はそちらもご覧いただけたらと思いますが、そのとき古代の難波がいかに王権と結びついた重要な土地であったかを知るには古墳時代に遡る必要があると書きました。
今日はその古墳時代の大阪へ時間を巻き戻してみます。
琵琶湖の水は琵琶湖南端の瀬田を出ると山中を縫うように西進し、やがて宇治川と名を変え、大山崎で木津川、桂川と合流すると淀川となって南西に下り、大阪湾に注ぎます。六世紀にこの淀川水系を掌握したのが継体天皇です。継体天皇(即位前は男大迹王)は近江国三尾(現在の滋賀県高島市)に別業を持つ彦主人王と越前国三国の振媛の間に生まれ、記紀によれば応神天皇の五世孫とされています。応神天皇との繋がりはともかく、幼くして父を亡くしたため、母の故郷である越前国の高向で養育されその後越前を統治していたところ、武烈天皇崩御に際し跡継ぎがなかったことから、大伴金村大連、物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らの推戴を受けて五〇七年に即位したとされています。その場所が河内国茨田郡樟葉宮で、伝承地とされている場所が交野天神社境内にあります。
交野天神社が鎮座しているのは現在の住所でいうと枚方市楠葉丘、石清水八幡宮が鎮座する男山の南西にあって、淀川まで一キロに満たない場所です。五世紀ごろの淀川の流れはいまと異なることも考慮に入れ、樟葉宮が置かれたのは淀川の入江に近い場所だったのではないでしょうか。継体天皇は樟葉宮で即位すると四年後には筒城宮(山城国)に、それからさらに七年後には弟国宮(山城国)に都を遷していますが、筒城宮は木津川左岸、弟国宮は桂川右岸にあり、いずれも淀川水系に近い立地です。結局大和国に遷都したのは即位から二十年ほど後でした。大和の都は磐余玉穂宮といい、現在の桜井市池内付近とされています。大和国に入るまでにそれだけの時間がかかったことについて、大和の旧勢力との対立があったのではとも言われている一方で、倭国内の力関係というよりも変動する東アジア情勢の中で迅速に情報を入手し手を打つために淀川水系の交通を掌握することが重要だったということがあったのではないでしょうか。
古代大阪湾における湊というと住吉津や難波津があり、より古い時代には大和川河口の住吉津のほうが中心的存在でしたが、次第に土砂が堆積し湊の機能が低下したことから、難波津のほうに主軸が移っていきます。湊は対外交渉の窓口のような役割を果たしましたので、そこを押さえることで緊迫する東アジア情勢に対し柔軟に対応できます。その意味でも難波津を含めた淀川水系の掌握は重要でした。最初の都を樟葉に置いたのは、九人いたとされる継体天皇の后の一人関媛が樟葉周辺を統治していた茨田氏の娘あるいは妹だったことと関係がありそうです。ちなみに九人の后のうち八人が大和国以外の出で、近江国出身者が多いところに、淀川~琵琶湖という巨大な交通路を手中に収める狙いが感じられます。それに加え、上田正昭先生が『帰化人』で河内の馬飼集団のことを書かれているように、現在の四條畷市を中心とした淀川の左岸一帯を根拠地としていた馬飼集団の存在も、継体天皇が樟葉を最初の都に選ぶ大きな理由になったようです。武烈天皇崩御の際、越前にいた男大迹王の元に大伴金村大連、物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らが訪れ即位を進言したことは先に触れましたが、その際河内馬飼首荒籠が迷いのあった男大迹王の背中を押したことで即位を決断できたというように、継体天皇は越前時代から河内の馬飼と親交がありました。河内の馬飼とはその字の通り馬を管理し飼育していた集団で、渡来系と言われています。上田先生によれば、馬飼は軍事面ばかりか交易の面でも力を発揮したようで、男大迹王は越前で馬飼集団と交易において関係を持っていたと考えられそうです。
では早速樟葉宮の伝承地へ。
社殿奥の杜を歩いていくと、境内北東の石段前に出ます(冒頭の写真)。この上の高台に樟葉宮があったと言い伝えられているそうで、石段を上がると現在そこには貴船神社があります。
貴船神社はもともとここではなく、交野天神社の社殿付近にあり、社名も穂掛神社だったと説明表示に書かれています。そのあたりのことはよくわかりませんが、御祭神の高龗神は水を司る神様ですから、淀川に近い当地にお祀りされていて何ら不思議ではありません。実際この場所に宮が置かれていたかどうかはともかく、古木に囲われた静かな一角に身を置いていると、それまでの大王とは一線を画し大和国ではなく樟葉を選んだ継体天皇が偲ばれました。
ちなみに交野天神社本殿の御祭神は桓武天皇の父にあたる光仁天皇です。
天応元年(七八一)光仁天皇から皇位を譲られ即位した桓武天皇は、延暦三年(七八四)平城京から長岡京に遷都しますが、翌年長岡京の南に位置する交野郡柏原に郊祀壇を築いて光仁天皇をお祀りし祭祀を執り行います。(『続日本紀』)本来郊祀は中国の皇帝が都の郊外に壇を築いて天地を祀る儀式で、天帝として王朝の初代皇帝を祀ることが多かったようです。中国への憧れが強かった桓武天皇は、長らく続いていた天武系から天智系が再興されたことを新王朝になぞらえ、光仁天皇を天帝としてお祀りしました。桓武天皇は郊祀壇を交野郡柏原に築いたとされますが、それがどこなのかは特定されておらず、伝承地として二箇所あります。一つがここ交野天神社で、もう一つが交野天神社から三キロほど南の杉ヶ本神社です。桓武天皇が郊祀を行ったのはわずか二回で、郊祀自体日本には定着しなかったということもあり、二箇所の伝承地も実際のところどうなのかわかりませんが、交野天神社の御祭神が光仁天皇なのは、そうした由来によります。大事なのは、継体天皇の樟葉宮にしても、桓武天皇の郊祀壇にしても、この場所が厳密にその場所であったかどうかということではなく、樟葉という場所が淀川の水運や馬飼の存在によって新しい国造りを目指す継体天皇にとっても、大和国を出て長岡京に都を置いた桓武天皇にとっても、意味ある重要な場所だったということで、縁あって訪ねたこの場所のことを心に留め置きたいと思います。