前回投稿した伊香具神社の参道からもよく見える賤ヶ岳は、標高四二一、九メートル、木之本町(大音と飯浦)と余呉町の境界にあります。賤ヶ岳という名前の由来はご多分に漏れずいくつあるようで、奈良時代の高僧行基が精舎を建立しようとすると、山の賤が白髪の老樵夫となって現れ、山谷に響く大音で精舎の守護神となろうと言ったことから大音大明神として祀り、山を賤ヶ岳と称したというものや、平安時代に空海が伊香具神社に参拝した際、神社の前で出会った女性になにびとかと尋ねると、「西方に高き山あり、これ賤の住む所なる」と言ったことから、その山を賤ヶ岳と呼ぶようになったとか、「しず」は垂れ、つまり急峻を意味するとか、諸説あります。
伊香具神社で出会った地元のお婆さんが子供のころに遠足などで賤ヶ岳によく登ったと言っていたように、余呉や木之本の人たちにとって賤ヶ岳は常に視界に入り暮らしに溶け込んだ身近な山なのです。四百メートル少しなら普段運動をしていない体でも登れそうですが、この日は三十五度を超える猛暑。マスクをしているだけで熱中症になりそうな暑さでしたのでリフトで上がることにしました。ときおり足下に登山道を見ながら六分ほどで山上へ、そこからさらに十五分ほど歩いて山頂に到着です。
賤ヶ岳といえば、織田信長が本能寺の変で倒れた後、柴田勝家と羽柴秀吉が主導権をめぐって争った賤ヶ岳の合戦が想起されますが、まずは見事な眺望をご覧ください。
これは南の光景。右に見えるのが琵琶湖。湖に沿って山が続いています。この写真からもう少し東に目を向けたのが冒頭の写真です。「うみ」と呼ばれる広大な琵琶湖は、場所によって湖の色が異なり、北に行くほど碧が深くなります。
神の島とも言われる竹生島も視界に入る奥琵琶湖の光景。比類ない紺碧の美しさに吸い込まれます。
西に目を転じると、湖北平野が拡がっています。山裾に見えるのは大音と共に糸取りの里として栄えた西山集落です。中央に見える小山は南麓に赤後寺のある湧出山。湖北の観音堂が点在しているのはこういう場所です。
北に向きを変えると、眼下には余呉湖が一望できます。琵琶湖の大江に対し、伊香小江と呼ばれた余呉湖は、流出入する川がなく湖面が穏やかなことから鏡湖と称されることもあります。湖水に動きがないため猛暑の時期は藻が繁殖して濁りますが、賤ヶ岳から見下ろすと翠も悪くはありません。
賤ヶ岳からの眺望には時を忘れて見入ってしまいますが、次第に目が慣れてくると幾重にも重なる山並や湖岸すれすれの道を走る車、奥まった入江に停泊する舟などが手に取るように見えてきます。湖岸沿いの道を塩津まで行きそこから北上すれば敦賀に出ます。またここからは見えませんが、賤ヶ岳の東には北国街道が通り越前に通じています。いまから四百三十七年前の天正十一年(一五八三)、こういう場所で激戦が繰り広げられました。
事の発端は初めに触れたように、信長亡き後の後継者問題でした。織田家筆頭家老の柴田勝家が信長の三男信孝を推したのに対し、羽柴秀吉は本能寺の変で自刃した長男信忠が残したわずか三歳の遺児三法師(後の織田秀信)を跡目に推挙したことで両者が激しく対立、次第に双方の勢力争いになっていきました。天正十一年、勝家が北ノ庄城(福井城)から敦賀を経て北近江の柳ヶ瀬(現余呉町柳ヶ瀬)に布陣すると(玄蕃尾城)、秀吉は余呉湖を囲むように砦を配し木之本の田上山に布陣、しばらく膠着状態が続きましたが、織田信孝が岐阜で挙兵したことから秀吉の軍勢が近江を離れた隙を狙い、勝家の軍勢は余呉湖東の大岩山砦と北の岩崎山砦を陥落させ、賤ヶ岳占拠も時間の問題と思われました。
ところがここからの秀吉の動きが流れを変えました。秀吉は直ちに軍を引き返し、大垣から五十二キロ離れた木之本にわずか五時間で戻ってきたのです。美濃の大返しとか秀吉の大返しと後世呼ばれているもので、この後輪を掛けるように前田利家が勝家軍から離脱したことで、一時は形勢有利だった勝家軍はたちまちにして壊滅に追い込まれました。
この戦の勝利で秀吉は天下人へ大きな一歩を踏み出したことを思うと、賤ヶ岳は天下分け目の歴史的立ち会い人だったと言えます。
実際激闘が繰り広げられたのは賤ヶ岳というよりも、余呉湖の周辺の大岩山や岩崎山で、とくに大岩山での戦は激しく、余呉湖が赤く染まったと言われています。江戸時代にはこの合戦を余呉庄合戦と呼び、大岩山が古戦場跡として知られていたようです。大岩山にはこの砦を守っていた中川清秀の墓があります。賤ヶ岳の合戦で功成り名遂げた七人の武将を賤ヶ岳の七本槍と呼びますが、その後ろには命がけで戦い落命した多くの武将がいたことをこの風景と共に心に刻みたいものです。