二年前の三月下旬、念願かない、ちょうど桜の時期に弘川寺を訪ねました。その様子はこちらのブログでもご紹介しましたが、いま思えば二年前の訪問は中学生が修学旅行で京都や奈良のお寺を訪ねるのに等しく、実に青臭いものだったと振り返って思います。ならば今年は青臭くないのかというと全くそんなことはなく、依然未熟であることを認めざるをえないのですが、この二年の間に一つ大きな変化はありました。
昨年二月に、父高橋英夫が他界し、その後私は父の仕事を新たな形で残すべく、出版に向け幾人もの方たちのご協力を仰ぎ、作業を進めています。最初の成果が、今月末に岩波書店から刊行される『五月の読書』ですが、もう一つ著作集の刊行を進めていまして、その作業の中で、父が五十年にわたる文芸評論活動の中で世に送り出した数々の著作に真正面から向き合うこととなりました。それがいま述べた大きな変化です。
最初に校正があがってきたのが古典についての評論をまとめた一冊で、そこに今から二十七年前の一九九三年に出た『西行』(岩波新書)が収められています。この本は新書という気楽さもあり、父の本の中では最も部数が出ている本ですので、もしかしたらすでにお読みくださった方もあるかもしれません。私はどうも、本の形より校正の状態で読むほうが身が入るところがあるようで、作業中幾度となく心に沁みる文章に出会い、立ち止まってそれを反芻するということを繰り返しました。これは父の本だからということではなく、文章を書く末端に身を置く人間の目から見て、高橋英夫の文章世界は、どう努力しても到達し得ない異次元で、ただ感嘆の声を発するしかないという、純粋な気持ちからくるものです。
ちなみに『五月の読書』には、そんな高橋英夫が尊敬の念を抱いた文学者たちについての文章が収録されていて、それらを読むと、父は多くの場合自分の先を行く相手に対し「憧れ」の感情を抱いていたことがわかり、興味深く思っています。憧れは成長をもたらしますが、嫉妬は成長を止めるばかりか、本来持ち合わせている資質の輝きさえ鈍らせてしまいます。上の人に対し憧れの気持ちを抱くということでは、私もそうしたところが多分にあり、いま私が抱いている高橋英夫の文章に対する憧憬が、多少なりとも私自身の文章の上達に繋がれば嬉しい限りです。
話が逸れましたが、一連の校正作業のおかげで、私は高橋英夫の『西行』に真正面から向き合うことになり、今年は多少肉付けされた状態で、弘川寺を訪ねることができました。
二年前にも弘川寺について投稿していますので、今回は『西行』の第一章「桜に生き、桜に死す…」からいくつか文章を引きながら、桜咲く境内の様子をご紹介しようと思います。父の西行論を、このように部分的に切り取ってしまうことに抵抗がないわけではありませんが、文芸評論はとかく敷居が高く思われがちで、よほど関心のある方か専門の方でないと手が出ないところがありますので、そうした先入観を取り払っていただき、高橋英夫が目指した文芸評論を少しでも感じ取っていただけたらという思いもあって、あえてこのような形を取ることにしました。
全く風のない、午後の遅い時刻で、そのとき丘の上には誰もいなかった。曇り空の下、あたりには物音ひとつあしない。見ていると、舞い落ちる花片は積もるともなく積もってゆく。こうして舞い落ちてくるのは西行なのではないか、これは西行の微塵なのではないか、という奇妙な感覚にふと襲われた。西行墳墓の上に、微塵の西行が降りかかってくるのを見た、と思った。
そうではあったが、いま誰もいない花の雨の中に立っていると、これは西行の大往生を荘厳する祝祭空間というものではないか、と思わずにはいられなかった。没後八百年といえば、忌年というよりは祝いの年とみた方がいいくらいであろう。大往生をたたえて、桜の花片は今年もまた、今日もまた降りかかってくる。しかしそれは同時に、一片一片が西行の精霊であるかのような気もする。忌でありながら祝祭。西行が西行みずからによってたたえられている祝祭。ちょっと奇妙な重複と混淆と逆転の感じがする。それが西行をいま生きている存在たらしめているー
…山桜が間なしに散りつづけ、すべての花片が地に敷きつめられたようになったあとで、身体から遊離して漂っていた「心」も最後の一片のように舞い降りてきて、地に落ちつくのだ。なぜかそれはかつてその中にいた身体の中に潜入して、身体との合一を回復したというのに似ている……とその低い声は語っている。西行があれほどに「散る桜」を好んだというのは、散りはてての後の何ごとかの達成を認めていたからではなかろうか。遊離したものもふたたび帰る時がやって来るのだ。剥き出しにいえば、その時とは「死」であり、「死」における完結、完成である。
ただ西行は「死」という観念としてそれを把握したのではなかった。限りなく散りつづける花片の吹雪のあいだにそれを透視したようなところがあった。「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」を思い合わせれば、そう感じられる。「死」は必ずしも冷たく暗く恐しいもの、停止したものだけではない。いつまでも上空から舞い落ちてやまない桜花雪片の無限と流動が西行の「死」のイメージであった。「死」は動いているのであり、その意味では生きているのである。如月の望月のころ、桜花のもとでの死が西行のみごとな「往生」であったというなら、この世から他の世界、聖なる境界に「往って」、そこに「生きる」ことを、西行はその死においてはたしていたのである。もちろんそのとき、あの遊離した「心」は西行という存在の底の方に沈んで、眠りこんでいる筈である。
旧河内国葛城山のふもと、弘川寺の西行墳墓で、私はしきりに散りかかる花片に降りこめられたようになったのだった。降ってくる花片は西行の微塵のようで、西行はいまも生きていると、幻覚めいたものを味わった。西行は西行の「死」をいまなお継続しているのだ。私は惑わされたのだろうか。実際、西行の言葉や「心」に眼をこらしてみると、死と共に西行が消えたあと、「歌」と「心」がいつまでも残っているようにみえる。普通なら、「歌」だけが残るところを、西行においては「心」も遊離して残っている。ところが西行の生死に思いをさしむけてゆくと、遊離していたものもふたたび生死の全体の中に回収されてしまう。そしてひたすらに散りつづける花片のようなもの、流動だけになってしまう。おそらくそれらのすべてをひっくるめたものが西行なのだ、と言うほかない。
私はここに引用したいくつかの文章に見られる継続する死の観念に惹かれています。死は流動し、動いている。さらにいえば死は生きている。死は生に通じている。
今年の弘川寺では、西行墳墓や裏山の桜はだいぶ終わりかけていて、父が見たような光景はあいにく目にすることはできませんでしたが、その代わり、本坊奥、西行記念館前にある大きな桜は、天と地を結ばんばかりに、雄大に枝を広げ、花であたりを埋めつくしていました。
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば 『山家集』七八