祭祀風景

峰定寺の採燈護摩供

前回投稿した野間大坊は、最近の投稿では珍しく海に近い場所に鎮座するお寺でしたが、ここ数年自然と足が向く先は圧倒的に山の方が多くなっています。奥へ奥へと進んだ先に、秘され守られてきた寺社や小さな集落に出会ったときの高揚感が何物にも代えがたいうえ、山には古来人が歩いてきた無数の足跡が眠っていると思うと無性に想像力をかきたてられるというのが、山に足が向く一つの大きな理由ですが、古くから日本人の間で受け継がれてきた山の信仰に、強く惹きつけられているということもあります。

今年の夏は、京都の山にご縁がありました。一乗寺にある狸谷山不動院で火渡り祭に参加、修験道の修行の一端に触れる機会を持ちましたし、雲ヶ畑にある志明院では、京の都を支え続けている鴨川を生み出した山の精気に触れました。どちらもそのときの様子を簡単ながら投稿しましたので、ご関心のある方はご覧いただけたらと思いますが、今回取り上げるのは花脊にある大悲山峰定寺です。

京の都と丹波・若狭を結ぶ鞍馬街道を北上すると、火祭りで有名な鞍馬を経て花脊峠に至ります。花脊とは、都(花)の背後(背)に由来するとか、ハナは端とか先、セは尾根筋の鞍部に由来するとか、はたまた花の美しい北山にあるからだとか諸説ありますが、都の背後説と尾根筋の端説はさもありなんという気がします。花脊の集落は、地名の元になった花脊峠を越えたさらに北の、山深いところにあり、平安京の杣山として木材が供給されてきました。元は丹波国に属していて、正保二年(一六四五)までに山城国に帰属したようですが、位置的には山城国と丹波国の境界にありますから、近世になっても丹波の色は残っていたでしょう。また御所から花脊までの距離と花脊から小浜までの距離はほとんど同じですから、ここは都、若狭、丹波それぞれの影響を受けた土地といえるかもしれません。

 

峰定寺は、そんな花脊の集落でもさらに北の花脊原地町にある本山修験の古刹です。桂川(大堰川)の源流の一つ寺谷川沿いから山号にもなっている大悲山にまたがる境内は、まさに修験の霊境の趣きで、京都の中心部から車で一時間以上かかることもあり、物見遊山の観光客とは無縁の静寂に包まれた信仰の寺です。ちなみに大悲山の悲は慈悲を表しています。

創建は平安時代の末期、西念(三滝上人)という修験者が熊野や大峯での修行を遍歴した後当地に至り、まさに霊峰たる大悲山に焦がれ、そこに庵を結んだことに始まると伝わります。西念は鳥羽上皇の帰依を受け、久寿元年(一一五四)二月に堂宇を建立、上皇の持念仏である十一面千手観音像を御本尊とし、同年四月に不動明王像と二童子像、毘沙門天像が奉納されました。平治元年(一一五九)には設計奉行の藤原通憲(信西)と雑掌の平清盛によって、仁王門や本堂が建立されたほか、藤原忠通により久多荘が、清盛により仏舎利が寄進されるなどして発展しますが、鎌倉時代の終わりに衰退し、鞍馬寺の末寺になりました。その後も宗派をめぐる争いに巻き込まれ、江戸時代に入り後西天皇の勅命で再興されました。聖護院の配下に入ったのもその頃のようです。

 

私にとっては十四年ぶり、久しぶりのお詣りです。しかも採燈護摩供に立ち会えた貴重な機会でした。

 

堂々たる仁王門が本堂への入り口です。清盛が建設に関わったとされる門で、現存の門は貞和六年(一三五〇)の再建。国の重要文化財です。本来ここにお祀りされていた金剛力士像は、現在は宝物館に納められています。

通常ここから先はカメラはもちろん一切の荷物を持って入ることができません。道は山伏たちの修行のための道です。持ち物すべてを寺務所に預け、襷をかけて六根清浄と唱えながら険しい石段をあがっていくのですが、護摩供の行われるこの日は特別に撮影が認められました。

 

大悲山は標高七四六メートル。その南西の中腹に本堂が建てられています。本堂までのおよそ四百段の石段を登っていく途中、何カ所かで足を留める場所があります。その一つがこちら。

 

俊寛僧都と妻子の供養塔です。俊寛は鹿ヶ谷の山荘で藤原成親、西光らと平家打倒を企てるも、計画が発覚し鬼界ヶ島に流されます。その際妻子は峰定寺の岩窟に身を隠したと伝わり、妻と男児は近くの谷で亡くなり、女児は奈良の寺に預けられたといいます。山深い当地は落人が隠れ住む場所でもありました。

 

石段を登りながら上を見れば、迫り来る巨岩に圧倒されます。自然に身を置くことで命と向き合い、叡智を得る。言うは易しで、厳しい修行を課してきた山伏たちの気迫がこの巌にしみ込んでいるような気がしてきます。

 

供養塔を過ぎると、行く先に懸崖造りの本堂が見えてきます。険しい石段を一歩一歩上がっていった先に姿を現す本堂は、木造建築の極み、圧巻です。日本最古の懸崖造りとのことで、清水寺はこれを元に造られたそうです。

 

 

本堂は開け放され、心地よい風が吹き抜けていきます。眼下にはご覧のような眺め。吉野の大峰山に対し、ここは北大峰と呼ばれ、熊野の行者が大峰山と交互に入嶺し修行を行ってきました。

ちなみに峰定寺のご神木の三本杉はこの広大な森にあります。樹齢千二百年と言われる三本杉は、一つの根元から三本の杉が射直線に天に向かって延びている大変珍しい杉。最近の調査でこのうちの一本が六二、三メートルと、日本一高い杉であることが判明したそうです。花脊はそういう大樹を育んできた山なのです。

今回はそこまで行く時間がありませんでしたが、花脊の山が生んだ奇跡の三本杉に手を触れてみたいものです。

 

峰定寺の御本尊は創建由来にもあった十一面千手観音像です。これは仁王門の金剛力士像同様収蔵庫に収められていますので、それについては後ほど。

本堂の西の切り立った巌から鎖が下がっているのが見えます。おそらくこれが第一鐘掛岩で、境内にはこうした険しい行場がいくつもあります。

山を下りる途中、本堂を目指し山を登る山伏一行に出会いました。一行は本堂で祈祷をした後、寺谷川対岸の広場で護摩供を行うのですが、その前に特別に公開されている収蔵庫で諸仏を拝観しました。(収蔵庫は五月三日と十一月三日のそれぞれ前後三日間と、護摩供が行われる九月十七日のみ公開されます。)

大自然に抱かれた修験のお寺の御本尊ですから、大きな姿を想像していましたが、御本尊の十一面千手観音像は坐像で高さ三十センチほど、ふっくらとした柔和なお顔や透かし彫りの光背から優雅な雰囲気が醸し出され、思わず見入ってしまいます。鳥羽上皇の持念仏だったということを信じれば、中央の仏師による作でしょう。千手観音像でこのように小ぶりで優美な像を私は他に知りません。

不動明王像や毘沙門天造、金剛力士像なども見事なもので、これらの仏像はいずれも国の重要文化財です。大悲山の自然に抱かれた峰定寺の法力に打ちのめされた思いがしました。

 

最後にこの日のメイン、採燈護摩供の様子をお仕えしましょう。

寺谷川に架かる小さな橋を渡り、仁王門と背後の大悲山を眺めていると、法螺貝の音と共に山伏たちが山から下りてきました。

向かう先は結界の張られた道場。用意が整うと、山伏問答、法弓の儀、剣の儀、斧の儀を経て、いよいよ護摩壇に点火されます。

護摩壇の周りを大勢の山伏たちが取り囲み、力のこもった祈祷が繰り広げられます。護摩供は燃えさかる浄火によって煩悩を焼き払い、御本尊を供養し、福をもたらす修法です。

護摩壇から立ち上った煙が、天高く舞い上がったかと思うと、筒状になった煙が風に流され、結界の外で拝観している私たちも煙に飲まれました。

この日私は、願いごとを記した護摩木を奉納しました。お導師様の祈りと共に炎にくべられた護摩木が、細かな灰の雨となって、見ている私たちに降り注ぎました。

いつもはほとんど人の姿を見ることのない峰定寺に多くの山伏が集った護摩供法要は、一年で最も華やぐ時間だったかもしれません。法要が終われば、またいつもの静寂に包まれた境内に戻り、時折訪れる修験者がここで命と向き合います。

神聖で力強い時間を共有させていただきました。

 

余談ですが、美食家に人気の美山荘は峰定寺の宿坊として明治二十八年(一八九五)に建てられたことに始まるそうです。料理旅館として再興したのは三代目のときで、現在の当主は四代目の中東久人氏。護摩供でもご奉仕なさっていました。

 

 

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