古社寺風景

野間大坊

前回投稿した今熊野観音寺は、西国三十三所の札所です。西国三十三所は日本における札所の巡礼として最も古いものになりますが、その後各地に様々な巡礼が設けられました。空海の足跡を辿った遍歴を元に作られた四国八十八箇所や、鎌倉時代に西国に倣って設けられた坂東三十三箇所、秩父三十四観音霊場…という具合で、西国と四国の写しが各地に拡がったこともあり、今や全国的に巡礼が行われています。

巡礼は宗教上の修行行為ですが、多くの庶民にとって、巡礼の楽しみといえば旅にあるでしょう。巡礼というコースに乗りさえすれば、お利益もあり、風景も楽しめるのですから、巡礼は現代風に言えばパッケージツアーです。江戸時代に巡礼が庶民の間に広まった時点で、旅の要素が修行的意味合いをを大きく上回ってしまった感がありりますが、多くの参拝者が訪れることで寺院も潤いますから、巡礼は双方にとって有益、持ちつ持たれつというところでしょうか。

 

野間大坊(正式には鶴林山大御堂寺)は愛知県の知多半島西岸近くにある古刹で、天武天皇の時代に役行者によって開かれ、後に行基によって中興されたと伝わります。創建由来に役行者や行基の名を上げるお寺は各地に見られますので、そのまま史実と捉えることはできませんが、いずれにしても古くからのお寺であることは間違いありません。

野間大坊といえば源義朝終焉の地として知られ、歴史好きが訪れる場所ですが、ここは知多四国八十八箇所と尾張三十三観音霊場の札所でもあります。

空海の足跡も全国至るところに見られます。そのうちの何割が史実なのかはわかりませんが、相当広範囲に旅をしたことは確かでしょう。知多半島も空海の足跡を伝える土地で、ここでは次のように言われています。

平安時代、全国行脚をしていた空海が、船で知多半島に沿って南下し、知多湾沿いの聖崎で上陸し、半島を横断して陸路伊勢へ向かわれたのですが、その際目にした風景が四国に似ていることに驚き「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん」と詠まれたのだとか。もちろん野間大坊にも空海の足跡が伝わります。

知多半島における八十八箇所の巡礼はそうした言い伝えを土台に生まれたもので、夢のお告げを受けた妙楽寺の亮山上人が文化六年(一八〇九)に四国霊場を三回巡礼した後、同志を得て、文政七年(一八二四)にようやく完成させたと言われています。

 

野間大坊は、御本尊阿弥陀如来像をお祀りする大御堂寺が五十番、地蔵菩薩像をお祀りする客殿が五十一番ということで、同じ境内に二つの札所を持っています。同じ境内に札所が二つあるというのは珍しく、本家四国八十八箇所の六十八、六十九番に見られる程度ですが、知多の八十八箇所は亮山阿闍梨が四国巡礼後に作ったとのことなので、四国を模したということかもしれません。

こちらが五十番に相当する阿弥陀如来像をお祀りする本堂。現在の建物は宝暦四年(一七五四)に再建されたものですが、御本尊は藤原後期のものと考えられるそうです。

こちらが五十一番の客殿。建物は伏見桃山城の建物の一部で、寛永年間にここに移築されています。御本尊の地蔵菩薩像は定朝作。源義朝亡き後伊豆の蛭ヶ小島に流された頼朝の持念仏だったものを、平清盛の継母・池禅尼によって当寺にもたらされたという謂われがあるそうで、頼朝はこの地蔵菩薩を熱心に拝んだ後鎌倉幕府を開くことになったことから、願いが叶うお地蔵様ということで、今も信仰を集めています。秘仏のため、それに代わるお前立ちを拝観することになります。

ちなみに池禅尼は、頼朝が自分の亡くなった子供に似ていることから、断食をもって清盛に助命を嘆願したと言われています。

 

ところで、冒頭でも触れたようにここは源義朝終焉の地です。平安時代の末、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、家臣の長田忠致おさだただむね影致かげむね父子を頼って尾張国の野間にたどり着きますが、恩賞目当ての裏切りに遭い、入浴中に襲撃されて命を絶たれました。(平治二年 一一六〇)そのとき「我れに木太刀の一本なりともあれば、むざむざ討たれはせぬ」と叫んだと伝わっています。

境内南東にある「血の池」(写真下)で、源義朝の御首が洗われたとのことで、国家に一大事があると赤くなると伝わっています。

本堂の東に義朝のお墓があり、このように多くの木太刀が奉納されています。

鎌倉の亀ヶ谷は父祖伝来の地でしたが、そこを源氏の確固たる地盤として固めたのは義朝でした。鎌倉幕府を開いたのは頼朝ですが、義朝によって築かれた地盤があったからこそ。その義朝が野間で命を絶たれたのです。義朝の無念はいかばかりかと心中を察するに余りありますが、義朝の死によって時代が動いたとも言えます。その意味でも、ずしりと重いお墓です。

 

ちなみに同じ場所には、池禅尼の塚や織田信長の三男・信孝のお墓(写真下)もあります。信孝は本能寺の変で父信長が討たれた後、織田家の跡目争いで秀吉に敗れ、野間の安養院で自害したと伝わります。

 

客殿には尾張藩初代藩主徳川義直の命で狩野探幽が源義朝の最期の様子を描いた「義朝最期図」と、頼朝が父の供養に野間大坊に立ち寄った時の様子を描いた「頼朝先考供養図」が伝わっていて、希望者にはご住職が絵解きをしてくださいますので、関心のある方は是非。国の重要文化財です。

ちなみに境内には重要文化財がもう一つ。こちらの鐘楼は、鎌管幕府五代将軍藤原頼嗣により寄進されたものと伝わる、尾張最古の鐘楼だとか。

境内に身を置いていると、八百年以上の歳月の隔たりが消え、これまで机上で捉えてきた歴史が息を吹き返したような気がしてきます。史跡を訪ねる最大の楽しみは、そこにあるといつも思っています。

 

 

 

野間大坊へのお詣りを済ませ、知多半島の先端に車を走らせました。日間賀島、篠島の向こうには渥美半島が。また視線を右にずらすと、伊勢も視界に入ります。

 

知多半島は東は三河湾、西は伊勢湾に囲まれ、南は太平洋に通じた海上交通の要衝ですから、古来多くの往来があり、それに伴って様々な文化や風習、信仰といったものがもたらされました。

知多半島に残る多くの寺院がその何よりの証拠ですが、半島というのは海に対して開かれている一方で、内陸部とは山の道によって通じているとはいえ隔絶したところもあるという複雑な面を持っています。義朝や信孝が野間に落ち延びたのも、知多半島のそうした地勢が関係していたのかもしれません。

 

 

 

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