今年の五月一日、それまで兵庫県篠山市だったところが住民投票により市名を変更し、丹波篠山市になりました。
事の発端は、今から十五年前北西に隣接する氷上郡の六町が合併し丹波市を名乗ったことです。丹波市というとそこがかつての丹波国の中心だったように思われかねませんし、名産として知られる丹波の黒豆や丹波栗、丹波焼きなどはすべて篠山で作られていながら、その名前から生産地を誤解されたり、篠山が丹波市の一部と取られたりといった問題も生じました。そこで住民投票に至ったということで、合併を伴わない市名変更は珍しいそうですが、篠山市から丹波篠山市になったことで、住民の方たちは落ち着くべきところに落ち着いたといった気分ではないでしょうか。
丹波国から引き継がれてきた「丹波」という地名は、いまなお生きていて影響も大きいものです。旧国名には歴史がずっしりと浸透していますから、たとえ地名が変わっても、旧国名時代以来の風土はちょっとやそっとでは抜けないのでしょう。旧国名が息づいている土地というと、私などはまず真っ先に近江国を思いますし、今は一つになっている愛知県や大阪府もそうです。前者なら三河国と尾張国、後者なら河内国と和泉国と摂津国に分かれていた時代の風土がいまだに残っていて、訪ね歩いているとその違いを肌で感じることができます。風土気質の違いが先なのか、それとも国境が引かれたのが先で、国の違いが風土気質の違いを生んだのか私にはわかりませんが、旧国名の影響の大きさというのを痛感します。
かつて丹波国だった地域は、現在の地名でいうと京都府京都市左京区京北、京都府亀岡市・南丹市・京丹波市・綾部市・福知山市、兵庫県丹波篠山市・丹波市に相当します。ただしこれは律令国家が成立した後のもので、それ以前に丹波国といえば但馬と丹後も含む、日本海という重要な玄関口を持つ広大な国でした。律令制の時代になって、但馬と丹波が丹波国から切り離されたのは、この国の力が強すぎたためだと言われていますが、縮小させられた後も丹波国は依然その地の利を生かし歴史の中で重要な役割を果たしてきました。
いまその一つ一つを書く余裕はないので簡単に言うと、丹波国は五畿七道の山陰道に属していましたので、古代にあっては出雲国との結びつきが強く大和の王権は丹波を掌握することに力を入れていましたし、平安京に都が移ってからは都の北西に位置する丹後を時の権力者たちは常に注視していました。そうした日本の歴史にとって重要な土地だった丹後国の存在を、今回の市名変更によって篠山地域が取り戻すことができたのですから、歴史好きの一人として純粋によかったと思います。余計なことを言えば、現在の丹波市はかつて西丹波地域と呼ばれていたこともありますから、西丹波市とでもしたら穏便に収まるような気がします。
丹波国についてはいろいろ書きたいことがありますが、それはまた別の機会にして、そろそろ丹波篠山の見所の一つ、篠山城(国指定史跡)と城下町の様子へと話を移しましょう。
丹波篠山市の中心は標高六~七百メートルほどの山々に囲まれた盆地です。その盆地の中央にある笹山と呼ばれる丘に、慶長十四年(一六〇九)家康による天下普請で築かれたのが篠山城です。当地は都と山陰、山陽を結ぶ要衝の地。豊臣家の大坂城と豊臣家ゆかりの西国大名を牽制するために、家康はここに城を築かせました。
縄張りは築城の名手・藤堂高虎が、普請総奉行は池田輝政が勤め、西国十五ヶ国から大名がかり出され、一年足らずで完成したそうです。堀は二重、外堀の三方には馬出が設けられ、防御に徹した城構えです。写真左下が東の馬出。右下が外堀ですが、幅が四十メートル近くありそうです。
穴太の石積みによる石垣も見事です。
城郭の造りがあまりに堅固なため、家康がかえって警戒して天守閣が造られることはありませんでしたが、天守台は残っています。
天守台からは下のような見事な眺望が得られます。中央の山は、城の南東に聳える高城山、別名丹波富士で、中世ここに波多野氏の八上城がありました。ちなみに家康はまず松平康重を八上城に移してから築城を命じ、篠山城が完成すると八上城は廃城になりました。
篠山城では二の丸に大書院、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所などの建物と庭園からなる御殿がありました。明治になり大書院を残して取り壊され、唯一残った大書院も昭和十九年(一九四四)に焼失してしまいます。写真左下は平成十二年(二〇〇〇)に復元された大書院、写真右下は大書院以外の建物跡です。
城址を巡っていると、篠山城の規模の大きさと堅牢さがよくわかり、おのずとそこから丹波篠山の重要性も感じられます。
城の周辺の城下町には武家屋敷や商家が残り、往時の様子が偲ばれます。
写真上は城の西側に残る御徒士町武家屋敷群の一つ安間家で、現在は資料館として公開されています。ここは国の重要伝統的建造物群保存地区で、城の南東には商家の残る河原町妻入り商家群もあります。
あちらこちらに鏤められた歴史を探しに、また訪ねてみたい町でした。