もう一つ、紅葉とは別の京都の秋の話題を。
十一月十五日、真如堂でお十夜の結願大法要が行われました。お十夜は、旧暦の十月五日から十五日までの十日十夜にわたり阿弥陀様に念仏を唱え続ける法要で、十日十夜別時念仏会というのが正式な名称ですが、一般には十夜法要、十夜念仏、あるいはもっと略してお十夜などと呼ばれます。お十夜ですと、ひょっこり訪ねて行っても受け入れていただけるような親しみやすがあります。実際私もその名に惹かれるように、法要の最終日に行われる結願大法要に参列させていただきました。
十夜法要は全国の浄土宗寺院を中心に行われていますが、真如堂が嚆矢と伝わります。真如堂は永観二年(九八四)に比叡山の僧戒算が夢告により延暦寺常行三昧堂の阿弥陀如来像を、神楽岡東に安置したのを始まりとする天台宗の寺院で、正式には真正極楽寺と言います。幾度も遷座を繰り返し現在の場所に落ち着いたのは元禄六年(一六九三)ですが、その過程における大永四年(一五二四)に「真如堂縁起」が作られており、そこに真如堂におけるお十夜の始まりとされる故事が以下のように記されています。
永享の比をひ伊勢守貞経舎弟貞国といひし。若年より深く弥陀の誓願に帰し。口称念仏を縡とす。(中略)或時倩三界有為の転変を嘆き。四相遷流の無常を思ひて。たとひ吾千秋の齢を保つとも松樹終に朽木となる。萬歳の楽に誇るとも蓬嶋更に腐草と空し。過去遠々の珍淪。未来永々の憂患を案じとりて。当堂に通夜して。今宵明がたに髷きらむと思定てまどろみけるに。残更に向とする枕ちかく僧形たちまして。(中略)此告夢にまかせて先遁世の事思留まりけり。翌日に舎兄貞経上意に違て都を忍て吉野の奥に蟄居。さて舎弟貞国を召出されて瑞夢の如く三日と申に家督に定まりぬ。…… 「真如堂縁起」(『続群書類従第二十七輯』)
永享年間(一四二九~一四四一)伊勢貞国(室町幕府の政所執事)が世の無常を案じ出家覚悟で真如堂に籠もって念仏を唱え始めたところ、出家を思いとどまるようにとのお告げがあり、その翌日兄の貞経が失脚し家督を継ぐことになりました。出家していたら家が絶えていたことになります。そのお告げに感謝した貞国は、真如堂でまた念仏を唱えたということで、それが十夜念仏の始まりとされているようですが、この記述は後から付け加えられた可能性もあり、お告げを受けたのは兄の貞経という説もあるそうで、実際のところはよくわかりません。(参照「真如堂における十夜法要と双盤念仏」福持昌之)
浄土宗の寺で行われるようになったのは、明応四年(一四九五)に鎌倉の光明寺の第九世祐崇上人が後土御門天皇に招かれ、真如堂の僧と共に宮中で念仏を唱え、その後光明寺でも念仏法要を営むようになったことがきっかけになったようです。
十日というのは、浄土三部経の一つ『無量寿経』に「善を修すること十日十夜なれば、他方諸仏国土において善をなすこと千歳ならんに勝る」とあることに由来するとのこと。当初は十月に行われていましたが、明治になり十一月に変更されています。
十一月五日の夕刻、開闢法要が執り行われると、その後十四日まで毎夕鉦講の人たちによる十夜鉦の演奏が続き、十五日に結願大法要とお稚児さん、僧侶によるお練り、夕刻の閉帳法要をもって幕を閉じるというのがお十夜です。六日から十四日の十夜鉦には僧侶は関わらず、鉦講の人たちだけで遂行されます。本堂内陣の左右に四名ずつの計八名が座り、枠台からつり下げられた一尺二寸(四十五センチほど)の鉦鼓を丁字形をした撞木と呼ばれる棒で叩きながら念仏を唱えます。お寺の行事でありながら、檀徒に任される部分もあるというのは、十夜鉦が宗教行事であると同時に民俗行事としての一面も合わせて持っているためかもしれません。
あいにくの小雨が降る中、三々五々人がお堂に集まってきます。お堂から外に向かって延びる白い綱は、御本尊阿弥陀如来像の右手と繋がる「善の綱」で、この綱に触れることで御本尊の功徳をいただけるとのこと。
下の写真では灯籠に隠れてしまってよく見えませんが、善の綱は灯籠前に立つ回向柱に結わえられ、その下には水を張った盥に水塔婆がお供えされています。
十五日の午後二時から始まる結願大法会を前に、内陣には既に裃姿の鉦講の人たちが待機しています。外陣にはお参りを終えた一般参列者たちが思い思いの場所に座り、開始を待っています。大法会の前に行われるお稚児さんと僧侶のお練りを見るには本堂の外にいるか外陣に座っていた方がよかったのですが、「よかったらこちらへ」と内陣に入れてくださったので、鉦講の人たちの斜め前あたりから大法会に参列することにしました。
薄暗い内陣は金の天蓋や瓔珞で装飾され、光り輝いて見えます。
しばらくすると鉦講の演奏が始まりました。仄かな灯りに照らされた八名の鉦講の人たちがゆっくりと手を動かし鉦を打ちます。響きにまた新たな響きが重なり、余韻が増幅していくと、堂内は次第に荘厳な雰囲気に包まれていきます。どうやらその頃本堂の外でお練りが始まったようで、法螺貝を手にした山伏を先頭に、御詠歌を担う女性たち、艶やかな装束姿のお稚児さん、それに続いて朱色や紫の法衣に袈裟をまとった僧侶たちがゆっくりと境内を練り歩き、本堂に近づいてきます。履を脱ぐ音と回廊のきしむ音がした後、御詠歌の歌声が近づいてはまた遠ざかっていきます。遠目ながら、お稚児さんや僧侶たちが回廊を左回りに進んでいく姿を捉えることができました。一行は須弥壇の周りを回り、私のいた内陣の向かって右側から内陣の所定の位置についていきます。その間も鉦の音は続いています。その後僧侶たちは正面から須弥壇前の内々陣に着座され、最後に貫主様が入られると、鉦の演奏が止み、僧侶たちによる読経が始まりました。辺りをうかがいながら静かに座していると、読経に加えまた鉦の音が聞こえてきます。鉦は十七曲が伝承されているそうです。曲によっては念仏を伴うものもありますし、鉦を打つ所作に目が行くものもあります。鉦の打つ強さや速度、間の取り方なども微妙に異なりますが、大きな流れの中で聞いてしまうので、曲の変わり目など細かなことはわかりません。それでも、美しい所作から生まれる鉦の音の響きと念仏の歌声が特別な空間を作り出し、堂内が一体感に包まれていきます。
読経が三十分ほど続いた頃だったでしょうか、僧侶たちが参列者の座っている方に向きを変え、「南無阿弥陀仏」と十回唱えられます。重く深い声が身体に沁みいるようで、参列者は思い思いに手を合わせています。
最後、鉦が堂内に響き、小一時間に及ぶ結願法要が終わりました。
僧侶たちが退席されてしばらく経った頃、内陣の宮殿《くうでん》に上がり、間近で阿弥陀如来像を拝観することができます。宮殿は徳川綱吉と桂昌院の寄進によるもので、そこに御本尊の阿弥陀如来像と脇侍、千手観音像、不動明王像がお祀りされています。お厨子のご開帳は一年で一日、結願大法会の後のみです。法要前は正面の少し距離のある場所からお参りできましたが、今度はすぐ目の前で拝観できるとあって、多くの人が列をなして待っています。順番が近づくと、係の人に「南無阿弥陀仏」と背中に書かれた白衣を着せてもらい、いよいよ壇上へ。お厨子内のお姿はこちらをご覧ください。
中央に阿弥陀如来像(国の重要文化財)。慈覚大師円仁の作と伝わる一木造りの阿弥陀様です。この阿弥陀様について次のような話が伝わっています。円仁が比叡山で苗鹿明神から光り輝く霊木を寄進され、割ってみると二つの仏様の姿が現れました。その一つを自坊にお祀りし、もう片方は唐から帰国後に阿弥陀如来立像として完成させようとします。完成間際に「比叡山修行僧のための本尊になるように」と、眉間に白毫を入れようとしたところ、如来は首を振って拒否したので、「京の都に下りすべての人々、とくに女性を救うように」と言うと、三度頷かれたそうです。そこからこの御本尊はうなずきの弥陀と呼ばれるようになりました。白毫を入れないまま比叡山の常行堂の御本尊としてお祀りされていた阿弥陀如来像は、円仁没後に比叡山の戒算によって当地に遷されました。
実際、間近で拝観すると、阿弥陀様の額には白毫がありません。また阿弥陀様の右手には冒頭で触れた白い善の綱に繋がる五色の綱が掛けられているのがよく見えます。背丈一メートルほどと小ぶりのお姿ながら柔らかさと強さが凝縮しており、身を任せても受け止めていただけるような気がします。大変美しい像で、もうしばらくその場に立っていたい気分でしたが、後ろにはまだ大勢の人が拝観を待っていますので、名残惜しい気持ちでその場を後にしました。
拝観を終え、真如堂の北を歩いていると、また鉦の音が聞こえてきました。この日の夕刻、再び僧侶たちが堂内に戻り、御閉帳の儀式が行われます。御厨子の扉が閉じられると、金色が暗闇に変わります。鉦の音が止んだとき、堂内やお寺の外はどのような感じになるのでしょうか。
また行く機会があったら、御閉帳の時間に合わせ、十日十夜続いたお十夜のすべての法要が終わる時を見届けたいものです。