以前取り上げた深草にある石峰寺は黄檗宗の寺院です。若冲にゆかりの寺ということで訪ねたところ、こぢんまりとした静かな境内の随所に異国情緒が感じられ、新鮮な印象でした。
黄檗宗といえば総本山は宇治にある萬福寺です。宇治は何度も訪ねているのに、どうしたわけか萬福寺だけは未訪でした。周辺はほぼ見ていても、ある一点だけ抜けていたというのは、寺社に限らず時々あります。すべてを網羅すべく日々あちらこちらに目配りしているわけではありませんので、当然といえば当然ですが、関心の向く時機や方向のほんの少しのずれで、そこだけエアーポケットのようにすっぽり抜けてしまうということのようです。宇治の萬福寺はまさに私にとってそのような存在でしたが、石峰寺が、ひいては若冲が萬福寺に目を向けさせてくれたような気がします。
萬福寺は東に連なる黄檗丘陵を背に九万坪もの広大な境内を有しています。元々この場所には後水尾天皇の生母中和門院(近衛前子)の別邸大和田御殿がありましたが、中国僧の隠元隆琦(一五九二~一六七三)のために幕府が収公し、萬福寺が建設されました。創建は寛文元年(一六六一)、伽藍の完成は延宝七年(一六七九)と伝わります。黄檗宗は臨済宗を起源とする禅宗の一派で、日本における禅宗の掉尾を飾ります。開祖は隠元ですが、隠元来日の時代背景が萬福寺創建に大きく関係しますので、まずはその辺りの歴史を振り返ってみます。
日本の禅宗は鎌倉時代に伝来して以降法灯を継いできましたが、徳川家康の時代になると宗教に対する統制が強化され、それに抗議をした妙心寺や大徳寺が処分されるなど、臨済宗に衰退の危機が訪れます。そうした折、妙心寺の龍渓は隠元の存在を知ります。他方、江戸初期の鎖国政策下で唯一開かれていた長崎には明からの中国人が数多居住しており、興福寺、福済寺、崇福寺といった中国式の寺院(長崎三福寺、唐三ヶ寺などと称されます)が菩提寺として建てられていました。これらの寺では、中国で修行をした優れた禅僧の招請が望まれ、初め隠元の法嗣(師から教えを継いだ弟子)が崇福寺に招かれますが、船が遭難してしまったため、興福寺の僧が直接隠元に来日を依頼します。隠元は高齢を理由に辞退するも、再三の招請を最終的に受け入れ、承応三年(一六五四)三十名の弟子たちと共に長崎に入りました。六十三歳のときのことです。(下は萬福寺所蔵の「隠元隆琦像」(重要文化財)の部分写真です。)
隠元は中国の明の時代、万歴二十年(一五九二)福建省に生まれます。幼い頃行方不明になった父を探し旅に出た隠元は、次第に仏教に関心を寄せ、福建省の古刹黄檗山萬福寺(宇治の萬福寺と区別して、宇治の方を新黄檗、中国の方を古黄檗と呼ぶことがあります)で二十九歳のとき得度します。各地の寺で修行を重ね、四十二歳(四十三歳とも)で師の法を嗣ぎ、一六三七年から七年間黄檗山萬福寺の住持となった後、また別の寺を経て、一六四六年再び萬福寺に戻ります。日本からの招請があったのは、二度目の萬福寺で九年にわたる務めを終えた頃でした。中国明の禅の使者として、また隠元自身の高い徳により、隠元の来日は熱狂的に歓迎され、多くの僧らが隠元の元に集まったといいます。
隠元の日本滞在は当初三年の予定で、その後はまた古黄檗に戻ることになっていましたが、隠元の来日により長崎が活況を呈していると知った妙心寺は、隠元を住持に迎えるべく働きかけます。最終的に妙心寺に隠元が来ることはありませんでしたが、それがきっかけとなり、隠元はそのまま日本に留まり宇治に萬福寺を開くことになりました。きっかけというのは次のようなことです。妙心寺には他山の僧を迎えてはならないとする別の派があり、その対立から妙心寺の龍渓は大阪の摂津富田の里寺・普門寺に隠元を招請しようと幕府に働きかけたところ、認められます。隠元は辞退したようですが、幕府による許可には抗えず、明暦元年(一六五五)普門寺に普山すると、今度は普門寺に大勢の人が詰めかけます。あまりの影響力の大きさに、幕府は一時隠元との接触を禁じたほどです。隠元の滞在は先ほども触れたように三年の予定で、本国からも帰国の要請が届くようになりますが、行く先々僧俗が雲の如く集まるという隠元の噂を耳にした四代将軍家綱が隠元を召見、幕府によって宇治に寺院建設用地が確保されると、隠元を日本に引き留める方向で事態が進展していきました。万治二年(一六五九)、隠元は宇治に新寺開創の上旨を受け、日本での残留を決意します。
このように日本での残留を熱望され、中国の古黄檗と同じ寺名で宇治に建てられたのが萬福寺です。西向きの広大な境内に伽藍が左右対称に整然と配され、黄檗宗の総本山らしく、中国式禅寺の趣きが大きなスケールを持って感じられました。昨日(十月十八日)、萬福寺が国宝に指定されることになったというニュースが飛び込んできました。萬福寺に思いを巡らせまさに投稿の準備をしていたところでしたので驚きつつ、これだけの歴史と伽藍を擁する寺院なのですから当然のことと納得しています。国宝指定が答申されたのは、天王殿、大雄宝殿、法堂です。早速境内へ。
総門は元禄六年(一六九三)建設、国の重要文化財に指定されています。牌楼と呼ばれる中国式の門で、屋根の両端に摩伽羅という鯱に似た想像上の生き物が乗っています。ひれの代わりに脚が生えているのが特徴の摩伽羅は、インドの女神の乗り物に由来するそうです。
総門をくぐると、菱形が連なる石敷きの参道が山門へと誘導してくれます。石條と呼ばれ、龍の背の鱗をモチーフにしているそうです。右には蓮の葉で覆われた放生池。殺傷禁断の象徴です。
三門は総門からすぐに見えない位置にあり、池を回り込んで歩いていった先に巨大な姿が現れるため、驚きもひとしおです。初めて萬福寺を訪れる人は、この三門を前に境内の規模が想像できるのではないでしょうか。完成は延宝六年(一六七八)、国の重要文化財に指定されています。
三間三戸、重層の楼門造り。「黄檗山」「萬福寺」の扁額は隠元の筆によるものです。
三門は正式には三解脱門といいます。三解脱門は貪欲、瞋恚、愚痴の三つの毒から解脱する悟りの境地を表しますので、ここから先は脱俗の清浄域ということです。襟を正し門をくぐります。
中心伽藍は一直線上に配され、その両側に左右対称に多くの建物が並んでいます。
参道の先、次に見えてくるのは天王殿です。寛文八年(一六六八)の建立。桁行五間、梁間三間、今回国宝に指定された建物の一つです。天王殿は萬福寺における玄関のような位置づけで、内陣正面には弥勒菩薩の化身である布袋坐像が、その背面には天王殿のさらに奥にある大雄宝殿の釈迦如来と対面するように韋駄天立像がお祀りされています。建物の四方には守護神として四天王像が配されています。
布袋様と弥勒菩薩はにわかに結びつきませんが、布袋様が持っている袋には救済した人たちからの感謝と慈悲の心が詰まっているとされ、そうした布袋様の徳の高さが弥勒信仰と重なり、いつしか布袋様が弥勒菩薩の化身とされるようになったとのこと。
これらの仏像は、中国から渡来した仏師范道生によるものです。長崎に来ていた道生は隠元によって萬福寺に招かれ、まず手始めに韋駄天立像などを造っています。韋駄天立像は若々しく美しい像で、見た瞬間惹かれましたが、この像を造ったとき道生はまだ二十八歳とわかり納得しています。
萬福寺には多くの仏像がお祀りされています。そのすべてを道生が手がけるのは不可能なので、手助けをした仏師が他にいたと考えられますが、いずれの像も日本の仏像とはどこか雰囲気が異なります。
天王殿から左右に回廊が延びています。
回廊を歩いていきたいところですが、まずは一直線上に並ぶ伽藍を辿ることにして、天王殿からさらに奥へ。
萬福寺の最大にして中心となるこの建物は大雄宝殿、本堂に相当します。桁行三間、梁間三間、天王殿と同じく寛文八年の建立。こちらもこのたび国宝に指定されました。チーク材を用いた歴史的建造物ということで大変貴重だそうです。
「大雄宝殿」の扁額は隠元の筆によります。天井は蒲鉾型をしており、龍の腹のように見えることから蛇腹天井と呼ばれます。
お堂に入ると正面には釈迦如来坐像、その左右には脇侍として摩訶迦葉《まかかしょう》と阿難陀《あなんだ》がお祀りされています。
この釈迦如来坐像は、和漢様式が融合した美しい像です。范道生ではなく、京都の大仏師兵部によると考えられるそうです。
堂内壁面には道生作の十八羅漢像が居並び圧倒的な存在感を放っています。
大雄宝殿のさらに奥にあるのが法堂、こちらも国宝に指定されました。
法堂は住持が説法を行う場所で、ここでは須弥壇はあるものの仏像はお祀りされていません。隠元禅師三五〇年大遠諱事業の一環で境内も整備され、この法堂については創建当初の姿であるこけら葺きに戻されました。手持ちの資料の写真は桟瓦葺きのため、屋根が違うとここまで建物の雰囲気が変わるのかと驚かされます。規模の大きさに圧倒されながら境内奥に進みましたが、この法堂に到り心が安らぐ思いがします。卍崩しの勾欄が美しく目を惹きます。天王殿の勾欄も日本の寺院では見かけない襷がけの意匠でした。こうしたさりげないところからも異国情緒が感じられます。
広大な境内、すべてを取り上げることはできませんが、この後は中央伽藍と回廊を通じて繋がっている左右の建物へ。天王殿から向かって左に延びる回廊を歩いていくと、中和園という庭園があります。
庭園を見下ろす少し高いところ隠元の墳墓、寿塔と呼ばれる六角形の建物があります。近づくことができず、石段下からの拝観になりますが、隠元生前中の寛文三年(一六六三)に完成しています。
またそこから三門に戻るように進むと、開山堂があります。
延宝三年(一六七五)建立。隠元像が安置されています。開山堂も卍崩しの勾欄です。
大雄宝殿の向かって右側には食堂にあたる齋堂、伽藍堂、鐘楼の建物が並んでいます。下は鐘楼、寛文八年(一六六八)の建立です。
このように萬福寺には国宝、重要文化財の建物が多く、絵画・彫刻にも第一級品が揃っています。特に伽藍は中国の様式を色濃く残しており、宇治の一画で異文化を感じることのできる貴重な寺院です。日頃新聞や書物などで親しんでいる明朝体が、萬福寺に伝わる鉄眼一切経に由来するのをはじめとして、萬福寺が日本に与えた影響は大きく興味は尽きませんが、最後に煎茶について触れておきます。普茶料理をはじめインゲン豆、蓮根、孟宗竹(竹の子)、西瓜など隠元が日本に伝えたものは数多くありますが、煎茶も隠元によってもたらされたもので、隠元の時代には萬福寺境内に茶園があったそうです。隠元がもたらした煎茶は、売茶翁(一六七五~一七六三)という黄檗宗の僧によって広められたことから、萬福寺は煎茶に縁の場所とされ、今も煎茶道流派の茶会が催されています。
売茶翁は肥前国生まれで十一歳で出家、萬福寺でも修行をしています。幼名は菊泉、僧侶としての名前は月海で、晩年高遊外と名乗っており、売茶翁は渾名のようなものですが、寺を出て自ら事を為す自善を行うべしとする信念によって、清貧の生活に身を投じながら京の町で茶を売ることで自ら禅の精神を伝えたことから、その姿勢、思想に傾倒する人が多かったといいます。伊藤若冲もその一人で、売茶翁を大変尊敬し、若冲が晩年自らを斗米庵と称したのも、売茶翁の影響とされます。人物画をあまり描かなかった若冲が売茶翁の肖像画を何枚も残しているのは尊敬の証ですが、若冲以外にも池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、渡辺崋山、富岡鉄斎らが同様に売茶翁の肖像を手がけています。文人墨客の心を捉えた売茶翁とはどのような禅僧だったのか、もう少し売茶翁に近づいてみたくなりました。
萬福寺には関心の芽が無数にあり、興味が尽きません。