古社寺風景

法界寺(日野薬師)

藤森神社や御香宮神社など、京都南部を訪ねる機会が続いています。現在京都市伏見区になっている一帯ですが、淀川を遡り洛中に至る経路にあたるため、古代の人の流れを伝える神社や古墳がいくつもありますし、平安京の歴史と密接に結びついた史跡が多いこともその理由です。現在の伏見区は中心となる伏見に加え深草、醍醐、淀、久我、羽束師が合併編入されたので東西に長く、洛中の南側に栓をするような、あるいは底を支えているような位置にあります。西端は桂川、東端は醍醐寺の奥の院がある醍醐山と地形的にも変化に富んでいます。

そのような伏見区の東に日野というところがあります。北に行けば山科盆地、すぐ東には醍醐の山並が迫っています。公共交通機関で行こうとすると、地下鉄東西線の石田駅から南東に一キロ少し歩くことになりますので、京都市内とはいえ京都観光からは無縁といった感じですが、旧奈良街道によって大和国や近江国にも通じているように、かつては交通の要衝で、山が近く自然豊か、風光明媚だった日野は古代に貴族たちにも好まれ、遊猟、薬猟が頻繁に行われていました。薬猟は日野だけでなく周辺の山科野、木幡野でも行われており、『日本書記』には天智天皇が天智八年五月に山科野で薬猟を行ったことが記されています。

日野の地名の由来として、次のような話が伝わっています。

斉明天皇元年、中臣鎌子(藤原鎌足)が山背国山階郷陶原に住んでいたとき、萱尾の荘に赴くと、どこからともなく琴の音が聞こえてきました。音のする方に山を登っていったところ、琴を奏する老翁に出会います。名を尋ねると、「我は天押雲命あめのおしくものみこと。この場所が気に入ったので、我が霊をここに祀ってほしい。そうすれば子孫から天皇を補佐する臣が出るだろう」と告げられたことから、鎌子は早速奏聞に及び土地を賜って社殿を造営しました。奈良の春日野に似ていたため春日野と名付け榜標を立てましたが、鹿が春の字をなめて消してしまいます。これは神慮によるものだろうということで、日野になりました。(『古寺巡礼 京都29 法界寺』「法界寺の歴史と信仰」岩城秀雄)

この伝承を紹介された岩城さんは法界寺のご住職ですので、お寺に伝わっている話なのかもしれません。この話自体は伝承でしょうが、飛鳥時代に藤原鎌足が陶原館すえはらやかたという邸宅を山階に構えていたことは確かなようです。(陶原館の場所は山科区大宅鳥井脇町の大宅廃寺跡、栗栖野丘陵の中臣遺跡など諸説あります。)陶原館には持仏堂(山科精舎)があり、鎌足亡き後、その遺志を継いで鏡女王が山階寺を建立しますが、山階寺は奈良興福寺の前身寺院です。先の伝承は、藤原氏の繁栄の始まり頃の話として興味を覚えます。ちなみに日野の南の木幡野には多くの古墳があります。宇治稜と総称され、藤原一門の墓地が中心になっています。そこからもこの一帯が藤原氏とゆかりが深かったことが伺えますし、平安時代に藤原道長が木幡に藤原北家の菩提寺として浄妙寺(既に廃絶)を建立したことも、この土地と藤原氏との縁を伝えています。

日野はその浄妙寺領だった土地で、そこに営まれていた日野家の山荘に平安時代後期の永承六年(一〇五一)、藤原北家の日野資業ひのすけなりが薬師如来をお祀りする御堂を建立したのが法界寺の始まりと伝わります。藤原北家は鎌足の孫房前を祖とし、房前の孫の内麻呂の長男が真夏、次男が冬嗣で、日野家は真夏を祖としています。

薬師堂にお祀りされた薬師如来の胎内には、先祖の日野家宗が円仁から贈られたという最澄自刻の薬師如来の小像が納められているとのこと。比叡山に大乗院戒壇建立の宣旨が下された際、勅使として赴いたのが日野家宗で、朗報に喜んだ最澄が返礼として太刀などと共に薬師如来像を家宗に与えたと日野家に伝わっているそうです。

資業が薬師堂を建てた時代は、末法思想の混乱のまっただ中でした。藤原氏は富と権力を集め栄華を極める一方で、下級貴族は生活に苦しみ、飢饉、干ばつ、疫病なども頻繁に起こり、社会不安が高まっていました。薬師堂が建立された永承六年の翌年にあたる七年(一〇五二)は、仏法が滅亡する末法元年とされていましたので、そこに近づくにつれ無常観や厭世観が渦巻き、一般の人々の間にも不安が広まりました。そうした中、人々の心を捉えたのが阿弥陀如来に極楽往生を希求する浄土信仰でした。ちなみに藤原頼道が宇治に平等院を創建したのは永承七年です。その当時は平等院鳳凰堂をはじめとする阿弥陀堂が次々と造られました。

そうした時代にあって、資業が建てたのは薬師如来をお祀りする薬師堂でした。(この後触れますが、法界寺には後に阿弥陀堂も建立されます。)浄土信仰(阿弥陀信仰)が来世の利益を求めるのに対し、薬師信仰は現世の利益を願うものです。資業は来世のことより、現世における一門の繁栄を強く願ったということだったようで、息子たちにもその考えが受け継がれ、実綱は観音堂を、実政は五大堂を建立しています。(いずれも焼失)同じ藤原北家の流れにあっても、日野家は道長や頼通ら冬嗣を祖とする流れに比べると家格が劣っていたので、日野家の隆盛を急ぐ気持ちがあったのかもしれません。

 

藤原宗忠(藤原道長から四代後、資業の息子である日野実綱の外孫)が記した日記『中右記』から、永長二年(一〇九七)に阿弥陀様をお祀りする阿弥陀堂があったことが伺えますが、いつ建てられたものかはわかりません。また宗忠は別の場所から阿弥陀如来像数体を法界寺に遷したり、妻の一周忌に新たな阿弥陀堂を建立したりしたことで、宗忠の時代には阿弥陀信仰の聖地としての色が濃くなりました。(最盛期には五体の阿弥陀如来像があったようです。)

鎌倉時代に、法界寺は承久の乱の戦火を被り承久三年(一二二一)ほとんどの建物を焼失してしまいますが、薬師堂に祀られていた御本尊の薬師如来像と阿弥陀如来像は難を免れることができたそうです。そのおかげで、焼失程なくして僧聖覚によって丈六堂(阿弥陀堂)が再建されました。それが冒頭の写真にもある阿弥陀堂です。法界寺はその後も戦乱に巻き込まれるなどして他の堂宇を焼失し衰退しますが、その際にも御本尊の地蔵菩薩像と阿弥陀如来像は難を免れています。

ちなみに浄土真宗の祖親鸞は、資業から三代後の日野有範の息子として法界寺で誕生しています。阿弥陀堂を再建した聖覚を親鸞は念仏往生の祖として尊敬していたといいます。

このように日野家の氏寺として最盛期には多くの堂宇を構えていた法界寺も、現在は阿弥陀堂と地蔵堂の二棟のみとなり、日野の日大道町でひっそりとその歴史の片鱗を伝えています。

山門をくぐると、正面奥には日野山を望み、延段が山に通じる通路のように真っ直ぐに延びています。左に見えるのが阿弥陀堂、右が薬師堂です。本堂である地蔵堂に比べ阿弥陀堂があまりにも立派なので、一見すると阿弥陀堂が本堂かと思ってしまいます。美しさと雄大さを兼ね備えた阿弥陀堂は、ここから見ると半分以上が木立に隠れていますが、圧倒的な存在感で迫ってきます。全体の姿が見えないのがもどかしく、数歩先を急ぐも、すぐに全容を目にしてしまうのがもったいないような気もしてきて足を止める。そんなことを何度か繰り返しているうちに、ついにお堂の前にやってきました。これが先ほども触れたように、鎌倉時代に僧聖覚によって再建された阿弥陀堂で、浄土の世界を表す建築として国宝に指定されています。美しく荘厳な御堂を前に、しばし足が止まります。

 

こちらはお堂の西側で、正面は上の写真でいうと右の南側になります。冒頭の写真がお堂の正面です。

正面、側面ともに七間の宝形造り(四つの屋根がすべて三角形)で、頂上に宝珠を頂いています。屋根と裳階は檜皮葺。現在は裳階がすべて吹き抜けになっていますが、かつては正面のみが吹き抜けで側面と背面には小部屋が設けられていたそうです。正面中央の裳階が少し高くなっているのは、平等院鳳凰堂にも見られます。

阿弥陀堂の周りには縁が廻らされています。

ありがたいことに阿弥陀如来を拝観できるというのでお堂の中へ。(撮影禁止のためお堂内の写真はありません。)薄暗いお堂の中央に四天柱(四つの円柱の柱)が立ち、須弥壇が造り付けられています。そこに定印を結び目を閉じてゆったりと座す阿弥陀如来像(国宝)がお祀りされています。像高は約二、八メートル。丈六の阿弥陀様です。顔も体も円味を帯び、表情は童顔、全身から優しさが溢れ出ているためか、大きさに圧倒されることなく包み込まれる感じで、すぐ近くにいらっしゃるようです。透かし彫りの雲炎に飛天が舞う光背の美しさには目を瞠ります。阿弥陀如来像自体は鳳凰堂の像とは雰囲気が異なりますが、光背の飛天は鳳凰堂の壁面を飾る飛天によく似ています。

阿弥陀如来像がすばらしいのは言うまでもありませんが、須弥壇内の壁画や四本柱に描かれた柱絵にも目が行きます。内陣の内外の壁には飛天や火舎(焼香に用いる法具)、楽器、阿弥陀如来像が、柱には金剛曼荼羅の諸尊が、いずれも極彩色で描かれています。実際には色が褪せたり、剥落しているところも多いのですが、それでも往時の華麗な様子は十分想像できます。

余談ですが、祇園祭の綾傘鉾に描かれている飛天は、法界寺内陣の飛天がモデルになっています。直接の関係はないとのことですが、流麗な姿が鉾町の人の目に留まったということのようです。

『古寺巡礼 京都29 法界寺』のページを少しだけご覧に入れます。

静かな日野にひっそりと佇む法界寺で、このように華麗な阿弥陀如来像にまみえることができるとは思っていませんでした。こうした邂逅は気持ちを豊かにしてくれます。

 

 

阿弥陀堂のすぐ南に建っているのが、本堂の地蔵堂です。先に触れたように、法界寺の始まりは薬師堂です。御本尊の薬師如来立像(重要文化財)はここにお祀りされています。秘仏のため写真で見た限りですが、すっきりとした立ち姿で、目を閉じた表情は穏やかです。金箔を施さない桜の素木に彫られており、衣の斬金文様が地味ながらとても美しく繊細です。二〇一六年に五十年ぶりにご開帳になったようで、今後いつご開帳になるかわかりませんが、是非一度は拝観したいものです。

霊験あらたかな薬師如来は日野家の人たちに篤く信仰されたのはもちろんですが、病を治してくださる仏様として一般にも広く親しまれ、いつしか法界寺は日野薬師と呼ばれるようになりました。

薬師堂内部は、内陣と外陣の間に格子戸が設けられ、そこに数え切れないほどのよだれかけが結びつけられています。

法界寺の薬師如来像は胎内に小さな薬師如来が納められています。そのことから出産を控えた女性の信仰も多く集めたようで、参詣した貴族の女性たちの間で授乳に効果があるとして乳薬師と呼ばれるようにもなりました。格子戸に結びつけられた数多くのよだれかけは、この薬師如来にすがる母たちの願いの強さを伝えています。

本堂とはいえ薬師堂は何となく異質な感じがしていたのですが、この御堂はもともと法界寺にあったものではなく、明治三十七年に法隆寺の塔頭である龍田の伝燈寺(現在は廃寺)の本堂を移築したものとわかり納得しています。阿弥陀堂に接近して建っており、少々窮屈に感じますが、敷地の関係でやむを得なかったのでしょう。法界寺は前にも触れたように往時は多くの伽藍を擁し、境内も広大でしたが、度重なる戦火を被り衰退したため、明治の初めに境内の半分を本願寺に譲ったそうです。(「法界寺の歴史と信仰」岩城秀雄)本願寺側からすると、ここが親鸞の生誕地であることから、法界寺の復興を助けたということのようで、現在法界寺の東隣には西本願寺の飛地境内として日野誕生院(写真下)があります。法界寺へのお参りの後、周辺を少し歩きましたが、日野誕生院も含めた一帯がかつての法界寺だったと思うとかなりの規模だったことがわかります。

 

 

誕生院の裏手に、日野御廟所がありました。ここには親鸞の父日野有範や母吉光女の五輪石塔、親鸞の娘覚信尼、日野富子の兄日野勝光らの墓石が集められています。かつてはここも法界寺の境内だったのではと思います。日野が日野家にゆかりの土地であることを改めて思い知らされました。

 

 

 

 

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