以前旧東海道を歩いていたときのことです。往路の最終日、山科を抜け天智天皇陵を右に見ながら上り坂を歩いていると、急に辺りが暗くなってきました。地図を見るとそこは日ノ岡という地名。山科盆地と京都盆地の間の日ノ岡峠にさしかかったようでした。日ノ岡というのは、北、西、南が山に囲まれ東側だけ開けていることから、真っ先に朝日の当たる場所ということで日ノ岡と名付けられたと言われていますが、私の場合日ノ岡で夜の闇を感じることになりました。太陽がすとんと西の山向こうに落ちてしまった感じはまさにつるべ落としで、見ているそばから風景に墨を混ぜたように暗くなっていく中、心のざわつきが大きくなってきたのを今でも思い出します。
そんな気持ちになったのは、天智天皇陵を過ぎて程ない場所で、夕暮れに聳え立つ「南無阿弥陀仏」と刻まれた巨大な石碑を見たときの衝撃が後を引いていたためです。粟田口大名号碑と呼ばれるこの石碑は、粟田口刑場で処刑された罪人の鎮魂のため、江戸時代中頃木喰正禅が建立したものと伝わりますが、石碑の迫力は一日中歩き通しで限界にさしかかっていた体を覚醒させるに十分でした。
粟田口大名号碑の辺りから日ノ岡峠を経て蹴上に至る一帯は、明治に廃止されるまで粟田口刑場があった場所で、江戸時代ここで磔や獄門、火刑が行われていました。京の七口の一つだった粟田口は東海道が京都に入る手前にあって交通量も多かったため、ここに刑場を置くことは良い見せしめになったということのようです。粟田口で処刑された人数は一万五千とも伝わり、天王山の戦いに敗れた明智光秀もここで晒されたと言います。粟田口大名号碑は、罪人といえども人間、鎮魂の祈りを捧げるべきと建てられたもので、もう少し北にいった九条山の辺りにはかつて山裾に供養の碑がいくつも建てられていましたが、廃仏毀釈や道路建設で破壊され、今残っているのはこれも含めわずかです。粟田口大名号碑も廃仏毀釈の際に切断され、道路の溝蓋に使われたこともあるそうで、いまあるのは昭和になって復元されたものですが、当地の歴史を訴える声なき声が薄暗い中に渦巻いているようで、背筋が寒くなりました。
不安を振り切るように坂を上がり、やっとの思いで蹴上に到着。ここまで来ればあとは左に曲がり、三条大橋まで平坦な道を一直線に歩くのみですから、ほぼゴールを捉えたような感じです。ほっとして一瞬足を止め進行方向右手に目を向けると、車が行き交う通りの向こうに鳥居と石標がやや控えめに立っているのに気づきました。石標は二つあり、一つには式内 日向大神宮、もう一つには青龍山安養寺と刻まれています。鳥居の先は小高くなっていて樹木が生い茂っています。気になりながらも、このときは道路の反対側から遙拝するに留め、ゴールに向かいました。
日ノ岡というと、薄暗がりを心細く歩いていた十二年前のこの情景が思い出されますが、このたび桜咲く季節にようやくお参りの機会が訪れました。最初にしみついてしまった感覚が薄れるのに十二年もかかったということでしょうか。
今回日向大神宮へは琵琶湖疎水に架かる大神宮橋を起点としました。三条通から見えた一の鳥居(写真上)から上り坂の参道を上がっていくと、大神宮橋に出るという位置関係です。
橋に立って右(南)を見ると、琵琶湖疎水の第三トンネルや煉瓦造りの旧御所水道ポンプ室(御所に防火用水を送るためのポンプ庫)が見えます。明治時代京都の産業復興と水源確保のために引かれた琵琶湖疎水は、三井寺に近い大津閘門から途中三つほどのトンネルをくぐって蹴上に至りますが、ここが船運の終着点です。
今度は橋から左(北)に目を向けると、蹴上船溜とその先に続くインクラインが見えます。高低差を解消するため、船をここで台車に乗せ、線路によって南禅寺船溜に運ばれたのが蹴上のインクライン(国指定史跡)で、現在桜の名所になっています。東海道を歩いていたときは意識に上りませんでしたが、琵琶湖疎水は山科のあたりから東海道の北側をときに近づき、ときに離れながら、同方向に進んでいたということに今さらながら気づかされます。東海道というのは道路に限らず海や川の道も含まれると歩きながら感じました。その意味で、琵琶湖疎水も立派な水路ですから、明治の東海道脇往還と言ってもいいのかもしれません。
日向大神宮は、東山三十六峯の一つ神明山の中腹に鎮座しています。天智天皇が当社にお参りした際神田を寄進され、神域の山を日御山と名付けたという伝承から、日御山(日ノ山)と呼ばれることもあります。標高は二百メートルほど。ハイキングに行く人と同じ路を進みます。
途中、左手に石段があり、その上に安養寺というお寺がありました。三条通の一の鳥居のところに石標が立っていたお寺です。立ち寄りませんでしたが、円仁開基と伝わる古刹で、以前村上春樹さんのお祖父さまが住職を務めていたとか。
舗装されているとはいえ勾配の急な道が続きます。十分ほど上ると、ようやく神社に到着。
石段を上がり神明鳥居をくぐると、冒頭の写真のように鰹木が並ぶ茅葺きの屋根、そこから天に向かって延びる千木が特徴の神明造りの社殿が現れます。手前が外宮(下ノ本宮)、奥の石段先に見えるのが内宮(上ノ本宮)というように、ここは京のお伊勢さんとして信仰を集めてきた神社です。
外宮にお祀りされているのは天津彦瓊瓊杵尊と天之御中主神。
内宮にお祀りされているのは天照大神と多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、いわゆる宗像三女神です。
山の中腹ということもあり、広さは感じられませんが、外宮と内宮の他にいくつもの境内社があります。下は恵美須神社と天鈿女神社。
上は別宮の福土神社で、ここには大国主命、彦火火出見尊(山幸彦)、鸕鶿草葺不合尊(神武天皇の父)、神日本磐余彦尊(神武天皇)がお祀りされており、建国神話に登場する神々が一同に会したようです。このほか、猿田彦神社や花祭神社、多賀神社に春日神社、厳島神社、二ノ鳥居の外には神田稲荷神社など。伊勢神宮遙拝所もあります。
内宮からさらに山を上っていくと、天岩戸があり、天手力男命をお祀りする戸隠神社になっています。
天手力男命は記紀神話において天岩戸に隠れた天照大神を外に引き出した神様として描かれています。
神社では第二十三代・顕宗天皇の時代に、日向高千穂から神霊を遷し創建されたと伝えています。(当社の外宮の御祭神が伊勢神宮の外宮と異なるのは、高千穂との関連を示すためかもしれません。)その後天智天皇から神田を寄進されたり、清和天皇から勅額を賜ったり、醍醐天皇により官幣社に列せられるといったことも伝えられています。応仁の乱で社殿や古文書類を焼失しますが、篤志家によって再興が試みられ、さらに徳川家康によって神領が加増され社殿も整ったようです。
顕宗天皇(袁祁王)は雄略天皇に殺された市辺之忍歯王の子で、兄の意祁王(後の仁賢天皇)と共に針間国(播磨国)に逃げ暮らしていたところ、針間を訪れた長官に発見され、皇位を継いだと記紀に記されています。仁徳天皇が第十六代なので、それから七代後、実在したとして五世紀後半から六世紀前半の時代になります。創建をその時代とする由来をそのまま信じることには無理がありますし、そもそも当初から皇祖神としての天照大神をお祀りしていたのかどうか。
日向大神宮が鎮座している神明山(日御山)の南は日ノ岡という地名で、その由来は最初に朝日の当たる場所ということでした。境内に影向石があったように、ここは古代自然神としての太陽神を崇めた祭祀場で、その後伊勢神宮が創建され伊勢信仰が盛んになったのに伴い、太陽神との繋がりもあり天照大神がお祀りされるようになったのではないかと想像します。とすると神社の創建は中世以降かもしれません。
現在のように伊勢神宮さながらに社殿が配置されるようになったのも、そう古いことではないはずで、東海道の往来が盛んになったことも無関係ではなかったのではないでしょうか。江戸時代の文化十二年(一八一五)日向社が伊勢神宮をなぞらえるように似通った社殿を配したことに対し、伊勢側は取り締まりを訴え、伊勢神宮を模した造営を停止させたそうです。(「神明造社殿をめぐる伊勢神宮と在地の相克に関する研究」九州大学大学院芸術工学研究院 准教授 加藤 悠希)東海道を歩いていたとき、各地で神明社と名の付く神社に出会いました。伊勢信仰の拡がりを見るようで、その都度立ち寄ってお参りしましたが、私が目にした範囲においてという限定付きですが、神明鳥居や神明造りを取り入れた社殿はあっても、日向大神宮ほどに伊勢神宮を模した神社はありませんでした。日向大神宮は一線を越えてしまったということのようですが、それは江戸時代に巻き起こったお伊勢ブームの大きさの裏返しなのかもしれず、立地とお伊勢ブームの影響を大きく受けた当社の近世の歴史を見るような話として興味を覚えました。