国学者本居宣長は、江戸店持ち商人が活況を呈していた松阪で、木綿問屋を営む小津定利の次男として享保十五年(一七三〇)に生まれました。宣長の曾祖父にあたる小津三郎右衛門が江戸に出店を希望していた小津清左衛門(同じ小津姓ですが、家系は異なります)に資金を援助したことは前回(松阪の豪商人屋敷)触れた通りで、宣長の家系の小津家もまた江戸に持つほど繁栄していました。
宣長が十一歳のとき父親が江戸で急死したため、一家は魚町の別宅(その家はもともと元禄時代に職人町に建てられたもので、その後魚町に移されていました)に移り住みます。前回投稿した長谷川治郎兵衛邸の斜め向かいがその場所で、写真下人が立っているところが本居宣長旧宅跡、旧宅跡の向かいは旧小泉家、その南隣が長谷川治郎兵衛邸です。小泉家は代々医者をしており、四代目の見庵は宣長と親交があったそうです。
宣長は七十二歳で亡くなるまでの六十年をこの場所で暮らしました。
建物は明治四十二年(一九〇九)保存のため松阪城跡の一画に移されたため、旧居跡には礎石と長男の旧宅、土蔵があるのみですが、土地の広さや街道沿いの様子から、ここで宣長が暮らした時代を思い描くことができます。
移築された宣長の家に行ってみると、小津家の別宅の建物だったということもありますが、松阪商人の家としてはこじんまりと簡素な感じがします。
商家に生まれた宣長は一時見習いのために江戸に出、兄亡き後は一時的に小津家を継ぎますが、商売に関心がなく不向きだったことから母親と相談のうえ江戸の店を閉じ、医学や儒学を学ぶため京都に出ます。小津姓を捨て先祖の姓である本居に戻したのはこの頃からで、次第に国学への関心を高めていきました。
京都から松坂に戻った宣長は、昼間は医者として働き、夜は家に訪ねてくる人たちに『源氏物語』の講釈をしたり、国学の研究に没頭したりと、宣長にとってこの家は生活と研究のための大切な場所になりました。
写真上、一番奥の格子窓の部屋が通りに面した店の間です。医者としての宣長は往診が中心でしたが、ここで診察することもあったようです。
その隣が中の間で、待合室に使われたこともあったとか。現在はここから家に上がることができます。
中の間に続き仏間が、その向かいに箱階段があり二階へと通じています。
二階には、宣長が五十三歳のときに屋根裏部屋を改作した四畳半の部屋があります。宣長はここを自身の書斎として研究に勤しみました。宣長はひとたび机に向かうととてつもない集中力で書物に向き合ったようですが、それだけに疲労もします。そんなとき宣長の心を慰めてくれたのが柱掛鈴でした。
鈴屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけおきて、物むつかしきをりをり引ならして、それが音をきけば、ここちもすがすがしくおもほゆ
歌文集『鈴屋集』にこうあるように、長い紐に小さな六個の鈴を縦に六カ所結びつけ、垂れた紐を引くと三十六個の鈴が鳴るというのが柱掛鈴で、鈴の音を大変好んだ宣長が自ら考案したものです。宣長が使用したものは現存せず、レプリカが本居宣長記念館に展示されていますが、しゃんしゃんと澄んだ鈴の音色に誘われて天から何かが舞い降りてくるような気もしますし、疲労し淀んだ心が洗われるような気もします。それに因み二階の書斎は鈴屋《すずのや》と名付けられています。
二階に上がることができませんので、家の外の石垣の上から様子をうかがうしかありませんが、窓の奥に掛け軸が見えます。掛け軸に書かれているのは「縣居大人之霊位」。縣居大人は賀茂真淵のことです。尊敬する賀茂真淵をしのびながら学問に励み、疲れると鈴を鳴らし心を慰めた宣長の様子が脳裏に浮かびます。
箱階段からさらに奥にあるのが八畳の奥の間です。この家で最も広い部屋で、ある時期からここに門人を集め講義をしたそうです。宣長はこの家で再婚した妻のたみと、その間に生まれた二男三女と共に暮らしていました。学問について語り合う声が家中に響き渡る中、家族たちもその声に接しながら日々の生活を送ってきたことになりますが、たみは宣長の研究の良き理解者だったのではないでしょうか。
宣長の時代の明るさを体感できるようにと、建物には照明がありません。なかなかそういうところはありませんが、そのおかげで宣長が目にした部屋の明るさを現代の我々も体感することができました。
寛政十年(一七九八)六十九歳の宣長は、三十四年にわたって取り組んできた全四十四巻に及ぶ『古事記伝』を完成させますが、その三年後七十二歳で永眠します。亡骸は山室山に葬られ、現在本居宣長の奥墓として国指定史跡になっていますが、幕末から宣長を崇拝する国学信仰が盛んになり、明治に入り奥墓の隣に宣長を祀る山室山神社が創設され平田篤胤と共に祀られました。
山室山というのは松阪の中心から南に十キロほどのところにあり便が悪いことから、大正四年(一九一五)松阪城跡のすぐ南、かつて四五百の森だった場所に遷されています。式内社松阪神社に隣接する本居宣長ノ宮がそれです。
志きしまのやまとこころを人とはば あさひににほふ山さくら花
境内には、宣長六十一歳の時の自画自賛像に賛として書かれた「敷島の歌」の歌碑が立っていました。この歌は宣長自身の心の歌とされています。
鈴屋にしろ本居宣長ノ宮にしろ、いまなお宣長の存在が各所で感じられました。