有名すぎることでかえって行きそびれてしまうところがいくつかあります。自身の関心に沿っていえば、出雲、宮島、高野山、伊勢、高山などがそうで、テレビや雑誌などで繰り返しその場の様子を目にしていると、なんとなく行ったような気になってしまうということもあれば、人気の観光地でもあることから人であふれかえっているだろうという先入観が一歩を踏み出す邪魔をしてしまうということもあります。それでも機会を作り、少しずつ行きそびれを減らすようにしています。誰もが心惹かれる場所というのはそれなりに理由があるはずですし、そういうところを知らずして一生を終えてしまうのはもったいないとも思うからです。行動してこそ得られるものの価値は大きいはずです。
伊勢にもなかなか行く機会を持てませんでしたが、十数年前に旧東海道を歩いたことがきっかけとなり、伊勢への関心が急に大きくなりました。江戸時代庶民が自由に旅ができるようになると、お伊勢参りは旅の目的として大人気を博します。その痕跡を旧東海道を西に進むにつれあちらこちらで目にするようになったのです。たとえば七里の渡しで知られる桑名には、伊勢神宮から払い下げられた鳥居が河口に立ち、熱田から船で桑名に上陸した旅人は、そこが伊勢への入り口でもあるということを意識させられます。四日市の日永には伊勢街道との追分があり、そこにも鳥居が立っています。日永から先、旧東海道は西へ、伊勢街道は南に通じているのです。さらに旧東海道を西に進み、旧道風景がよく残っている三重県の関宿に入ると、そこにも鳥居があり、街道が分岐しています。関の鳥居から南は伊勢別街道で、日永から南下してきた伊勢街道と津で合流し伊勢に向かうことになります。伊勢の存在は、こうした鳥居や街道からだけではなく、土地土地に鎮座する神社に設けられた伊勢神宮の遙拝所であったり、神明社や神明宮と名の付く神社からもうかがえ、旧東海道をより深く知るためには伊勢街道も歩く必要があるだろう思うようになり、旧東海道を歩き終えた二〇一二年、日永を起点に伊勢に通じる伊勢街道を四日かけて歩き、初めて伊勢の地を踏みました。そのため私にとって伊勢は自分の足で到達した場所として記憶に刻まれています。当時は徒歩ゆえに周辺の多くの場所に行くことはできませんでした。それでも四日市の日永からの距離を体感できたのはよかったと思っています。すでに詳細は忘れてしまっており、いま写真を眺め少しずつ記憶を呼び戻しているところですが、昨年末伊勢志摩方面を再び訪れた際、十数年前に足を延ばすことのできなかった場所の一つ、朝熊山の金剛證寺を訪ねました。
伊勢へ参らば朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば片参り
こう唄われているように、神仏習合の時代から伊勢神宮の鬼門(北東)に位置する朝熊山金剛證寺は、伊勢信仰と結びついて伊勢神宮の奥の院も呼ばれ、多くの人が参拝に訪れたといいます。ただお伊勢参りと組み合わされた寺社は多賀大社や多度大社、津島神社など他にも多くあり、いずれも一方だけのお参りは片参りと呼ばれていましたので、朝熊山の金剛證寺が特別ということではありません。とはいえ、金剛證寺から内宮までの距離は、外宮から内宮までの距離に次いで近く、同じ伊勢という土地にあることから、どこか特別な感じもします。
朝熊山金剛證寺のある朝熊山は「あさまやま」と読み、正式には朝熊ヶ岳といいます。伊勢神宮内宮から北東方向に四~五キロほどのところにあり、標高五百数十メートルのいくつかの峰から成っています。古くから山岳信仰の対象とされてきた霊山で、そこに欽明天皇の時代、暁台上人が庵を建てたことが寺の始まりと伝わります。その後聖武天皇の時代に寺としての形が整えられ、平安時代空海が真言密教の道場を開いたことで隆盛を極めたそうです。ちなみに現在は臨済宗南禅寺派に改宗しています。昔の人は当然参詣は徒歩によりましたが、現在は伊勢志摩スカイラインという自動車道が通っているので、伊勢方面から十五分ほどで山頂付近に到着します。途中の一宇田展望台からは五十鈴川河口付近の風景や、伊勢神宮域と思われる広大な山林も見えます。
また金剛證寺を過ぎ志摩方面へと下っていく途中、伊勢湾に浮かぶ菅島、坂手島、答志島などが一望できます。
かつて徒歩で金剛證寺を目指した人たちも、こうした眺望を前に一息ついたことでしょう。
伊勢方面から車で上がっていくこと十数分、朱色の門が見えてきます。駐車スペースに車を駐め、上の写真に見える石垣沿いの道を歩いて境内に入りましたが、本来の入り口である仁王門は朱色の門の向かって左奥にあり、そちらから入るのが正しい順路でした。実際に歩いた順番とは異なりますが、ここでは正しい順路で。
長い石段の先に聳える仁王門。
現在の仁王門は昭和の再建とのことですが、それなりに古びた感じになっています。表側には仁王像が、門をくぐった裏側には雨宝童子と明星天子が安置されています。
こちらが雨宝童子。神仏習合の両部神道において、天照大神が日向に下生したときの姿を現しています。
明星天子は仏教における天部の一人で、星を神格化したものです。境内には雨宝童子と明星天子をそれぞれお祀りするお堂がありますので、それについては後ほど触れます。
仁王門をくぐり境内に入ると、右手に池が拡がっています。連間の池といい、空海が掘ったと伝わるそうです。
その池に連珠橋という赤い太鼓橋が架かっています。橋の手前が此岸、向こうが彼岸を表しているのだとか。彼岸に見えるのが雨宝童子像をお祀りする雨宝堂です。
この池庭は寛文十二年(一六七二)に造られたとのこと。
池に沿って進んだ突き当たりには地蔵堂があり、徳川綱吉の母桂昌院が寄進したと伝わる矢負地蔵(国の重要文化財)がお祀りされています。
地蔵堂からさらに進むと、杉の巨木が聳え、石段上に建物が見えてきます。これが金剛證寺の本殿、摩尼殿です。
現在の建物は慶長十四年(一六〇九)池田輝政の寄進による再建とのこと。御本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。福徳・威徳・智徳の三徳を備えた虚空蔵菩薩で、二十年に一度、伊勢神宮の式年遷宮の翌年にご開帳になる秘仏です。虚空蔵菩薩の虚空蔵とは、宇宙のように無限の徳や慈悲を蔵しているということで、虚空蔵菩薩はそれらを衆生に与えてくださるというのですから、なんともありがたい菩薩です。この本堂には天照大神を現す神鏡もお祀りされ、神仏習合を伝えています。
本堂の向かって右手、北の方向に参道が続いています。
岩の上に新しい朱色のお堂が建っていますが、これが明星天子をお祀りする明星堂です。明星天子は虚空蔵菩薩の変化身ともされています。
さらに奥へと進むと、八大龍王、経ヶ峯参詣道入り口とあります。
この先に経ヶ峯と呼ばれる尾根があり、その東斜面から多くの経塚(経典を土中に埋納した塚)が発見され、国の史跡に指定されています。伊勢湾台風による倒木の処理中、銅製の経筒や鏡などが発見され、さらに調査したところ三十年にわたって造営された四十三基もの経塚が見つかったのだそうです。経塚は永承七年(一〇五二)に末法の世が訪れるという末法思想が流行したことから、経典を後世に伝えるべく始まった信仰形態ですが、朝熊山の経ヶ峯から見つかった経塚は伊勢神宮の神官によって造営されたものとのことで、当時の神官にまで経塚の信仰形態が浸透していたことがわかります。経塚までの道の様子がわからなかったため、そちらには立ち寄らず奥の院を目指しましたが、やはり行っておけばよかったと。
黄檗宗のお寺にあるような極楽門と名付けられた門の先に奥の院があるのですが、そこに至る参道で驚くような光景を目にしました。
鬱蒼とした木々に覆われた参道の両側に、卒塔婆が壁となってびっしり並んでいるのす。卒塔婆は各家のお墓に立てられるものと思っていたのに、ここは奥の院に通じる参道です。卒塔婆は参道脇に設けられた設置場所にも大量に立っており、何番地と数字が打ってあります。卒塔婆によっては八メートル近いものもあります。そもそもそのような巨大な卒塔婆を見たことがありません。
伊勢志摩地方では、亡くなった人の魂が朝熊山に昇ると考えられ、宗派を問わず葬儀の後に奥の院にお参りし、卒塔婆を奉納する習わしがあるのだそうです。山に故人の魂が帰るという信仰は各地にありますが、このように卒塔婆を建てて供養するというのは初めて知りました。いつから行われているのかわかりませんが、朝熊山が古来伊勢志摩の人たちにとって魂宿る山だったからこその信仰習慣で、伊勢神宮以前の歴史を垣間見た思いです。ちなみにここに奉納されている卒塔婆は一万近くあるそうです。
卒塔婆が途切れた山の斜面には、九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆や伊勢神宮遷宮再興の祖らの五輪塔も。九鬼嘉隆は関ヶ原の戦い後、答志島で自刃、嘉隆の三男が金剛證寺で出家し父の菩提を弔ったそうです。
奥の院にお祀りされているのは延命子安地蔵菩薩です。その向かって右に茶店のような建物があります。富士山が見えることから富士見台というそうで、かつて朝熊山に登った一休禅師はここから富士山を見て「海を呑む 茶の子の餅か 不二の雪」と詠んだそうです。ここから富士山と聞いて驚きますが、昨年末投稿した二見浦からも富士山が見える日があるのですから、ここから見えて当然です。地図を見ると二見興玉神社のほぼ南に奥の院があります。
富士山を御神体とする静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社の御祭神は木花之佐久夜毘売ですが、別名は浅間大神です。「あさま」といえば、金剛證寺のある朝熊山も「あさまやま」と読みます。この浅間の由来は朝熊山にあったとする説もあるようですので、遠く離れた朝熊山と富士山は古くから信仰の糸で結ばれていたのかもしれません。
伊勢をより深く知るためには、富士山についてももっと知る必要があるのでは…。朝熊山を巡ってそんなことを思いました。