前回俊徳街道について少しばかり触れました。この街道は大阪の四天王寺と生駒山麓高安付近を結ぶ道で、途中から十三峠を越える十三街道と合流するので、俊徳・十三街道とも呼ばれます。旧道が残っていないところも多く、厳密にこの街道を辿ることは難しいのですが、次第に山並が大きく近づいてくると、東に向かって歩いているのは確かなのだという安心感が得られ、少々の間違えも気にならなくなります。生駒山地を越えた東側には古代の政治の中心地だった飛鳥や平城京があります。当時そこを目指した人たちにとっても、この山並は良い目印であり、心の支えにもなったのではないでしょうか。生駒山地を越えるにあたり、十三峠の他にも暗峠や鳴川峠といった重要な峠がいくつかあります。暗峠は以前奈良県側から越えたことがありますが、生駒山地の傾斜は大阪側の方がきつく麓の住宅街の坂道を少しばかり歩いただけでも息が上がるほどですので、大阪側からこれらの峠越えをするのは準備と気合いが必要です。
それはともかく、俊徳街道の名前の由来になった俊徳は、高安の山畑で暮らす長者の息子俊徳丸に由来します。ただしこれは伝説上の人物。俊徳丸についての話が浄瑠璃や歌舞伎などに取り入れられたことで、その名は街道ばかりか演劇の世界でも生き続けていますが、その名はもう一つ、生駒山麓の高安にある古墳にも刻まれています。
俊徳丸鏡塚古墳といって六世紀後半の円墳です。俊徳丸はそもそも伝説上の人物ですし、その伝説は四天王寺があった時代の話ですので時代が全く合いません。円墳から道路一本隔てると今も山畑という地名がありますので、この地で生を受け、継母の讒言で家を追われ盲目の乞食になった悲劇の人物の墓地がここにあったら…という思いがいつの間にかこの円墳に乗り移ってしまったということなのか、それだけ俊徳丸伝説が人々の心に深く刻まれていたということなのでしょう。
古墳の周囲には石碑や石の焼香台、手水鉢などが置かれています。これらは当地に縁があった尼僧で日本画家の大石順教尼僧が二代目實川延若や七代目松本幸四郎、六代目尾上菊五郎らに依頼して寄進してもらったものだそうで、これらを見るとここが浄瑠璃「摂州合邦辻」の舞台のような錯覚を覚えます。ちなみに寄進を依頼した大石尼僧は明治三十八年(一九〇五)に大阪堀江の遊郭で当主が内縁の妻の親族ら六人に刀で切りつけた堀江六人斬り事件に巻き込まれ、養父でもあった当主に両腕を切断されながらも一命を取り留め、口に筆を加えて絵を描き、障害者の自立支援活動を行い、高野山で得度し尼僧にもなったという壮絶な人生を送った方です。夫との離婚後に尼僧を志した際、高安に草庵を建てたことがあったらしく、俊徳丸伝説鏡塚古墳に寄進を依頼したのもその頃かもしれません。
古墳時代後期に当地に何らかの貢献をした人物の墓が、いつしか俊徳丸伝説と習合し、俊徳丸鏡塚古墳という名で史跡になり、そこを訪れる人がいます。史実とは異なっても、この古墳の存在が末永く記憶に留め置かれることになったのですから、むしろこの古墳にとってはよかったのかもしれません。それにしてもこの古墳があることで、俊徳丸が実在の人物のような気がしてくるのですから不思議です。
伝説はさておき実際の古墳に目を向けますと、俊徳丸鏡塚古墳は生駒山地の麓の迷路のように入り組んだ住宅街の一画にありますが、道標もあるので迷わずに行くことができます。
回り込んでみると、入り口部分が開口しています。崩落の危険があるので内部に入ることはできませんが、中は意外と広く見えます。実際玄室内は九平方メートル弱あるようです。伝説の話が先行しましたが、この古墳は「高安千塚古墳群」の一つ「大窪・山畑二十七号墳」で、国指定の史跡になっています。つまり生駒山麓高安の周辺は、このような古墳が密集して造られた一大群集墳地帯で、数の多さから千塚という名がつけられています。
高安千塚古墳群は生駒山地西麓の南部、高安山(四八八メートル)の麓の、標高六十から百八十メートルほどの傾斜地に造られており、現在は二百三十基あまりが確認されています。かつてはその倍以上あったようですが、江戸時代になり人々の往来が盛んになると、生駒山地西麓に沿って高野山へと通じる東高野街道に近いこともあり、高安千塚古墳群は盗掘されるなどして荒れましたし、貝原益軒がこれを古墳ではなく古代人の穴居跡だとしたことが後の時代にも影響したようで、開墾や開発で失われたものも多いといいます。(参照『河内平野をのぞむ大型群集墳 高安千塚古墳群』新泉社)それでも畿内でも有数の群集墳地帯です。生駒山地周辺には高安千塚古墳群のほか、すぐ北には楽音寺・大竹古墳群(以前投稿した心合寺山古墳があります)、南には平尾山古墳群もありますし、大和川を越えると玉手山古墳群が、さらに南の生駒山地から続く金剛山地の麓にも一須賀古墳墳がというように、大阪と奈良を隔てる生駒・金剛山地の大阪側の麓には数え切れない数の古墳が造られています。それぞれ時代も被葬者も異なりますが、古墳時代河内平野で活躍した人の姿に思いを至らせることのできるこの上ない史跡です。高安千塚古墳群はそのうちの一つの古墳群であり、俊徳丸鏡塚古墳は、さらにその中の一つということです。
俊徳丸鏡塚古墳から東に四百メートルほどのところに来迎寺というお寺があります。その墓地の中にも、大窪・山畑六号墳、七号墳、八号墳があるというので、そちらにも行ってみました。
来迎寺は浄土宗の寺院で江戸時代初期頃の創建とされますが、詳しい時期は不詳です。近くに奈良時代行基が開いた井戸があり、それが来迎井と呼ばれていたことからお寺も来迎寺になったと伝わります。
境内の傾斜地は墓地になっており、先祖の墓参りに訪れた人の姿も見られます。その墓地の向かって右手奥にこんもりとした塚があり、下部が抜け穴のようになっています。これが大窪・山畑七号墳(国指定史跡)でその形状から抜塚古墳と呼ばれます。これは六世紀末から七世紀初めに造られた大型の右片袖式石室の羨道部分なのだそうです。
かなり大きな石が使われいるように、高安千塚古墳群の中でも最有力者層のもののようです。
七号墳(抜塚古墳)よりさらに上の斜面に、もう一つこんもりとした塚があります。
こちらが六号墳(国指定史跡)で高安千塚古墳群の中でも古い時代の、六世紀前半頃のもののようです。こちらは小ぶりの石を積み上げてあるらしく、崩壊の危険があるので、開口部がふさがれています。
八号墳は六号墳北側の本堂寄りにあるようですが、墳丘がわかりにくく、確認できませんでした。
古墳時代の前期を過ぎると河内湖が次第に陸地化し大阪平野が出来ていきました。眼下に広がる大阪平野が被葬者にとって意味のある特別な場所だった、だからこの場所に埋葬されたのではないでしょうか。
石室の形から被葬者には大きく分けて二つの系統が考えられるそうです。一つは渡来系、もう一つは在地系で、現在の八尾を拠点としていた物部氏との関係もありそうです。高安千塚古墳群は私有地にあるもの、山中にあるものなど、一人で訪ね歩くのが難しい古墳も多いのですが、折を見てさらにいくつか実見できたらと思っています。