澄みきった秋の空気は空や湖水の蒼さを一層際立たせます。今年の夏は例年に比べて暑くまた長かっただけに、秋の訪れがいつにもまして有りがたく、この一瞬一瞬が貴重に感じられます。夏の疲れが残る体を引きずるように、貴重な秋晴れのある日、琵琶湖東岸に伊崎寺を訪ねました。
伊崎寺は、西国三十三所の三十一番札所長命寺から湖岸に沿って北に七、八キロ程の、湖に付きだした半島先端にある天台宗の古刹で、八月一日に行われる棹飛びと呼ばれる修行で知られます。
お寺のある半島は標高二百メートルほどの伊崎山を中心としています。航空写真を見ると一目瞭然ですが、長命寺から伊崎山のある半島までは奥津山や笠鉾山と低山が続いており、伊崎山はその連山の北端にあたります。山際すれすれの湖岸沿いの道は、深い木立を縫うように走り、琵琶湖東岸に広がる平坦で開けた風景とはここだけ別世界です。
伊崎寺へは湖岸沿いの道を使う以外に、内陸から行くこともできます。その場合はかつて琵琶湖最大の内湖だった大中の湖を埋め立てた広大な干拓地を通ることになりますので、伊崎山との高低差とそれがもたらす風景の違いを一層強く感じることになります。現在は平坦な大中の農地の先に、こんもりとした丘のような伊崎山を望みますが、大中が湖だった時代は伊崎山は半島ではなく湖に浮かぶ島でしたので、伊崎寺が創建された当時は現在とはまったく異なる景観が広がり、寺への参詣路も異なっていたことになります。そんなことを思いながら境内へ。
半島南東にある入り口から北端のお寺までは、山を縫うように参道がきれいに整備されています。
途中、突き出すように聳える巨岩が目に飛び込んできます。岩の上には祠がありお花も供えられています。祠の中にお祀りされているのは修験道の開祖・役小角。伊崎寺に伝わる『伊崎寺縁起』によると、奈良時代に役小角が猪に導かれ当地を訪れたことが始まりとされていることから、ここに役小角がお祀りされているのでしょう。山塊が湖に迫り、ところどころ巨岩が付きだした地形は修験道の聖地に相応しく思えます。
上りが続いた参道は、ある地点から下りに変わります。道が下りはじめてしばらくすると、石を積み上げたお地蔵様が現れ、その先に書院の屋根が見えてきます。
本堂はこの奥ですが、先に書院前の石段を下り、本来の入り口のある山門へ。
急な石段を下った先に山門が見えてきます。山門まで来ると、目の前には琵琶湖が広がっています。
山門の下に続く石段をさらに下ると、船着き場があります。大中が湖だった時代、参拝者は琵琶湖を渡る船でこの船着き場から上陸し、先ほどの山門をくぐり、石段上のお堂にお参りしたのです。
山号は姨倚耶山。ここからほど近い長命寺と同じ山号です。
それにしてもこの日の琵琶湖はどこまでも蒼く透明で、神々しくさえ思えました。
奥に見えるのは対岸に連なる比良の山並。あの山並のどこかに、比叡山東塔無動寺の奥の院で、回峰行にも縁の葛川明王院があります。実際は二十キロほど離れていますが、琵琶湖によって風景が開けているためなのか、湖を横断すれば容易にそこに到達できそうな気がしてきます。
船着き場の右に目を向けると、湖東から湖北にかけての山並も一望できます。
伊崎寺は奈良時代に役小角が猪に導かれ当地を訪れたことに始まると伝わり、元は巨岩を御本尊とする修験の霊場だったものが、貞観年間に比叡山の相応和尚が感得した不動明王を当地にお祀りするため堂宇を建てたことで、お寺としての形態が整ったと言われます。天台修験の拠点となったのは鎌倉時代以後のようです。相応和尚は比叡山の千日回峰行の祖として知られますが、葛川の明王院や比叡山東塔の無動寺を開かれた方でもあります。『葛川縁起』によると、相応が修行中に滝で不動明王を感得し、滝壺に飛び込んだところ、不動明王だと思っていたのは桂の古木で、それを元に千手観音を刻み御本尊としてお祀りしたのが明王院とのことです。伊崎寺では、桂の古木からは三体が掘り出され、根元は無動寺、真ん中部分は明王院、先端が伊崎寺の御本尊になったと伝えています。
桂の古木から造られたという伊崎寺の御本尊は不動明王で、現在は国の重要文化財として比叡山延暦寺の國宝殿にあるそうです。ただし実際には作風から十世紀末のもののようですから、縁起が伝えるように相応の時代とは合いませんが、信仰の根を同じくするお寺が比良山中と琵琶湖沿い、そして比叡山にあることが重要に思えます。余談ですが、この三つのお寺を線で結ぶと、二等辺三角形が浮かび上がります。葛川明王院から伊崎寺、無動寺までがそれぞれ二十キロ、伊崎寺から無動寺が二十七キロほどで、七キロの差を誤差の範囲と思えばきれいな三角形とも言えます。二等辺三角形としたら、葛川明王院が頂点になりますが、お寺の創建年代と照らし合わせると、葛川明王院が一番古く、その数年後に無動寺と伊崎寺が出来ていますので、お寺の位置が作り出す二等辺三角形は信仰の流れを表しているような気がしてきます。偶然といってしまえばそれまでですが、古墳や古い神社などが地図上で何らかの形を浮かび上がらせることは時々あります。地形と天体を熟知し凝視することで、古代の人の目は記念碑的な建造物を造るに相応しい場所を捉えることができたということがあったかもしれないと、そんなことを思います。
こちらの本堂に現在お祀りされているのは江戸時代の享保年間に造られた不動明王像です。本堂は幾度か再建されているようで、現在の建物は文化十五年(一八一三)の建築です。本堂にお参りした後、本堂脇からさらに北に続く道を下っていくと、棹飛びの修行が行われる棹飛堂と呼ばれるお堂があります。
上の写真のように、棹飛堂は背後の巨岩にくい込むように建っています。つまりこの岩が信仰の原点ということで、お堂をのぞくと岩をお祀りしていることがわかります。
お堂の欄干から湖を見下ろすと、お堂を支える岩から長い棹が湖に付きだしているのが見えます。伊崎寺の名を知らしめる棹飛びは、この棹の先端から祈りを捧げながら湖に飛び込む行で、現在は比叡山の百日回峰を満行した僧侶によって行われています。
棹は幅が三十センチ、長さは十三メートルほどです。十三メートルは七間半になりますが、『伊崎寺縁起』によると、これは回峰行の七里半を表しているとのこと。湖面までは七メートル近くありますので、ここを渡り先端から身を投げるのはかなりの精神力が必要ですが、これは捨身の行、他者救済のため自身を犠牲にする修行です。人々の願いのため自らを捨てて飛び込み、岩を伝って陸に上がってくるという一連の修行は、再生の意味もあるそうです。
棹飛びの行は夏の暑い盛り、八月一日に行われます。百日回峰行を満行した僧侶たちにより法要が営まれた後、白装束の僧侶が手を合わせながら次々に琵琶湖に飛び込んでいきます。まだその様子を実際に見たことはありませんが、まさに身を挺しての行ですから、周囲は気迫と緊張に満ちているのではないでしょうか。ちなみにその日は沖島の漁師さんが船を出してくださるので、抽選に当たれば船からお参りすることができるそうです。
捨身の行として長年受け継がれている棹飛びですが、その起源として相応の時代に行われていた飛鉢の法との関連も指摘されています。飛鉢の法は空鉢の法とも呼ばれるように、空の鉢を飛ばして通行する船に施しを求めるというもので、以前信貴山について投稿した際、信貴山縁起絵巻に出てくる鉢の話を紹介しましたが、これもまさにその一例です。瀬戸内海や日本海に多く伝わり、鉢を飛ばすのは天台宗系の僧侶であることが多いようです。琵琶湖にも伝わっており、大江匡房による『本朝神仙伝』には比良山の僧が大津を通行する船に鉢を飛ばした話が出ていますので、相応がその法を行ったと伝わるのも不思議ではありません。とはいえこれは説話で、実際に鉢を飛ばしたということではありません。つまり行き交う船に喜捨を求めたことが、修験僧たちの卓越した身体能力やそれを元に行う秘法と相まって、鉢が飛ぶという話になったのではないかと。確実に言えるのは、当時伊崎寺付近を行き交う船が多く、すぐ近くに沖島もあることから、当地が湖上交通の要所だったということで、伊崎寺がちょうどよい風よけになったことから船が近づくことも多かったことから施しを受ける機会も増えたのではないでしょうか。棹は施しを受ける際に鉢をつり下げる役目を担っていたかもしれません。
棹飛びの行の起源は何であれ、現在は捨身の行、純粋な祈りの行です。
以前は継承のために一般の人も参加できたようですが、危険を伴うので現在は百日回峰行を満行した僧侶に参加が限られているそうで、それにより信仰の面が強調されているのではないでしょうか。
棹飛堂から枝越しに沖島が見えます。沖島もまた古来神宿る信仰の島でした。琵琶湖とその周辺には水の信仰はもちろん山の信仰もあり興味が尽きません。