西国巡礼の第八番札所は初瀬の長谷寺です。長い登廊の先に現れる本堂は、山の中腹にある懸造りの建物で、舞台に立つと長谷寺が初瀬の自然に抱かれているのがよくわかります。春は桜、秋は紅葉と舞台から望む見事な眺望に加え、四季折々季節の風が吹き抜けるので、いつ訪れても心が洗われます。堂内にお祀りされている御本尊は十一面観音像。十メートルを超える大きさで、日本一とも言われます。その威容にまず言葉を失いますが、仏前に佇んでいるとその大きさは決して威圧的ではなく、豊かな包容力で小さな存在である自分を包み込んでくださるような気がしてきます。自らの非力を素直に認め、大きな存在に身を委ねたとき、そこに信仰が生まれるのだろうと、そんな思いを抱かせてくださる観音様です。
長谷寺から直線距離にして北北東に二十数キロのところに、第九番札所の南円堂があります。南円堂は弘仁四年(八一三)藤原冬嗣によって父内麻呂追善のため興福寺境内に建てられたお堂です。八角形の円堂としては日本最大とのこと。現在の建物は四度目の再建で、寛政元年(一七八九)に完成しており、冬嗣の時代のものと全く同じではないようですが、正面には向拝、屋根には唐破風、屋根の反りが美しく、北円堂と共に興福寺の建物の中でも印象に強く残ります。
ちなみに北円堂は藤原不比等の一周忌に、元明天皇・元正天皇が長屋王に造らせたお堂で、堂々とした中に気品が感じられます。こちらは国宝に指定されていますが、南円堂は再建ということもあり重要文化財です。同じ八角堂でも雰囲気はかなり異なり、南円堂は朱が用いられていることもあって華やかさが際立ちます。西国巡礼の札所であることを思うと、この華やぎは大切に思えます。巡礼者は長谷寺から六時間以上かけてようやく南円堂にたどり着く、そこで目にするのは朱色の美しいお堂。巡礼者は達成感を抱き、お堂に慰められたのではないでしょうか。
巡礼者を喜ばせるのは、それだけではありません。南円堂にお祀りされている不空羂索観音菩薩にまみえたら、一番札所を発ち、ときに険しい道を歩き、足を痛め、体を引きずるように苦難の道を辿ってきたことなど、一瞬にして吹き飛んだことでしょう。私がこれまで拝観してきた仏像の中で、一、二を争う美しい仏さまです。以前一度拝観したことがありましたが、このたび再びまみえる機会を持ちました。
南円堂は一年に一度、大般若経転読法要のある十月十七日にのみご開帳されます。西国三十三所札所の中で、常時拝観できるところの方が少なく、三十三年に一度とか五十年に一度というお寺もありますので、一年に一度拝観できるというのは機会に恵まれているとも言えますが、そうそう都合が合うわけではありません。やりくりして都合をつけた人、偶然その場に居合わせた人、前から予定を立てていた人など様々ですが、皆気持ちは一つです。長い行列の最後に並び、少しずつお堂に向かって進んでいく半時間ほどは、心を落ち着けるのにちょうどよい時間でした。
南円堂には不空羂索観音菩薩坐像(国宝)を中心に、四方には四天王立像(国宝)が取り巻き、向かって右に法相六祖坐像(国宝)のうち常騰、行賀、玄賓、向かって左に神叡、善珠、玄昉が配されています。四天王像は以前中金堂(仮金堂)に安置されていましたが、研究により元は南円堂にあったことが判明し、平成二十九年に遷座、本来の配置に戻ったそうです。
お堂は東向きに建っています。正面の扉は閉ざされたままですが、この扉が開かれ、観音様の姿が現れたときのことを想像するだけでも胸が高鳴ります。現在拝観者はお堂をぐるりと回り込み、背面西の扉から入ります。下の開け放された扉は南西の扉、明かり取りのために開けられています。堂内は撮影禁止のため、ここからちらりとのぞく台座部分からその大きさを想像していただくしかないのですが、その存在感は大きなお堂が狭く感じるほどで、薄暗い堂内が金色の観音様によって輝くほどでした。
不空羂索観音は、人々の願いをむなしいものにすることなくあらゆる衆生を救済する観音様です。眉間に縦に一目を有した一面三目八臂のお姿で、頭上の宝冠には阿弥陀如来の化仏を頂き、上半身には薄い鹿の皮をまとっています。そのため春日大社の建御雷神の本地仏とされたことから、藤原氏による信仰が深まったようです。文治五年(一一八九)運慶の父康慶とその弟子たちによって十五ヶ月の歳月をかけ造られたという不空羂索観音は、桧の寄せ木造りで、高さは三、三メートル。長谷寺の十メートルを超える十一面観音には及びませんが、非常に大きく感じます。お堂の大きさとの関係もあるでしょうが、やはりこの像の持つ力の大きさゆえでしょう。
背面の扉から中に入ると、多聞天の奥に光り輝く観音像が現れます。右斜め後ろのお姿ですが、打ち震えるほどに美しく、吸い寄せられるように正面に回り込みました。正面では無心に手を合わせている人が何人もいます。「前にお進み下さい」という係員の声など、この像を前にしては誰の耳にも入ってきません。一年に一度、ほんのわずかの時間だけしか拝することができないのです。それぞれの思いを達成するまではこの場所を動くことはできない、堂内はそんな雰囲気です。
どんなに言葉を駆使しても、この美しさを正確に表現することはできそうにありません。撮影禁止ですがパンフレットの写真をここに出すことは許されるでしょう。
お顔も体も豊かな張りを持ち、内側から光りが溢れ出てくるようです。まず目が行くのは胸元で合掌した第一手。心を込めた祈りの手を前に大きな安らぎを感じます。左に蓮華、右に錫杖を持った第二手は、衆生を救おうと今まさに動かれようとしているようですし、。第三手は写真ではわかりにくいのですが、両手を垂らし掌を前に向け、衆生を包み込んでくださるようです。左に羂索、右に払子を持った第四手からも救いを感じ取ることができます。それらのバランスが見事で、正面からはもちろんのこと、横から拝観しても造形の美しさは一貫しています。とくに吸い寄せられるように見入ったのは透かし彫りの光背です。細かく彫り込んだ二重円相は繊細さと優美さを兼ね備え、光り輝く観音像に一層の輝きをもたらしています。これほど美しい光背は見たことがありません。あまりの美しさに言葉を失い、思わず手を合わせてしまいましたが、心の広い観音様のことですからこのような経緯で手を合わせる人を排除することはないだろう、美は神仏に通じる入り口でもあるはずと、時間の許す限り拝観しました。
西国巡礼のルートは長谷寺から南円堂の間に限らず、信仰に加えて土地の文化や自然に触れる機会も多いので、歩き進むに連れ期待が高まっていくのではないでしょうか。私は易きに流れ、公共交通機関で行けるときに行けるお寺にお参りしているので、その感覚をまだ自分のものとしていませんが、歩けるうちにごく一部であっても自分の足で歩いて巡礼の一端を体感できたらと思っています。