大阪北部の北摂山地にある高山は、箕面の勝尾寺から直線距離にして北に一、二キロの北摂山系に位置し、標高は四、五百メートルほどです。大阪の軽井沢と呼ばれるだけあって夏でも爽やか、高地にあって昼夜の寒暖差が大きい上に、水や土も良質なので、高山で採れる農産物は美味しいと評判です。高山まで足を延ばした目的の一つは、朝市で採れたての野菜を手に入れることでしたが、実はもう一つ、高山は戦国時代のキリシタン大名高山右近の生誕地ということで、実際にその土地を見てみたかったということもあります。
まずは高山の野菜のことを。
高山名産の筆頭は高山真菜と高山牛蒡です。高山真菜は江戸時代から栽培されている菜種菜の一種で、ビタミンCやカロチン、カルシウムなど栄養豊富。秋に種をまき、十二月から三月頃までが収穫時期です。そのため今出回っているのはお漬け物ですが、菜の花に似たほろ苦さもあって、とても美味しいです。
高山牛蒡も江戸時代から栽培が始められたとのことで、香りがよく柔らかいのが特徴だそうです。牛肉とのしぐれ煮にしていただきましたが、その通りでした。
このほか、インゲンやオクラ、ピーマン、シシトウ、カボチャ、茄子、タマネギ、ズッキーニなど、大半が一袋百円という安さです。高山から帰ってすぐに茄子やピーマン、タマネギ、シシトウなどを早速調理したところ、どれも野菜本来の旨みが凝縮されていてあっという間になくなりました。
高山には山の斜面を利用した棚田で米作りも行われています。高山を訪れたのは九月の半ばでしたが、まさに収穫時期で、あちらこちらで稲刈りが行われていました。お米も買いましたので、いただくのが楽しみです。
棚田の風景はいつ見てもいいものです。
高山右近がこの地に生を享けたのは、天正二十一年(一五五二)または二十二年(一五五三)と伝わります。棚田から西に数百メートルの高台に生誕地の碑があります。高山家は代々高山の地頭を務める家柄で三好家の勢力下にありましたが、三好家の重臣松永久秀が大和国に侵攻し宇陀の沢城を落とすと、右近の父友照はその城主となりました。従って右近が高山にいたのは生まれてから八年ほどの間ということになります。高山家が高山の地で地頭を務めていた頃の痕跡はないようですが、ここに石碑があるということはこの周辺ということなのでしょう。
石碑の後ろには八幡神社や阿多古神社、稲荷神社、観音堂の小さなお社が寄せ集められたように建っています。中央の一番大きな建物は八幡神社です。
右近がキリシタン大名になったのも父の影響が大きいとされていますので、父友照のことにも触れておきます。永禄六年(一五六三)にイエズス会宣教師が堺を訪問した際、友照はキリスト教側と仏教側の議論の審査役として同席することになりました。それは友照が仏教をよく理解していたからで、討論の中でキリスト教に怪しい点を見つけたら、キリスト教を追放するというお役目だったのですが、話を聞いているうちにキリスト教の教えに感化されキリスト教に入信することになりました。そのような父の影響の下、右近も家族とともに幼少期に洗礼を受けました。
その後高山父子は高槻城に入った信長の直臣和田惟政に仕えますが、元亀二年(一五七一)和田惟政は荒木村重に討たれ、元亀四年(一五七三)高山父子は荒木村重の下高槻城主となります。後に友照は右近に城主の地位を譲り、友照はキリスト教の布教や教会建設に熱心に取り組んだそうで、そうした父の姿勢がまた右近に影響を与えたといいます。
天正六年(一五七八)荒木村重が織田信長に反旗を翻した際は、開城しなければ修道士たちを磔にするという信長からの通達を前に、右近は開城か抗戦かで父とも意見が分かれ悩みますが、領地も家族も捨てどちらにも加担せずに頭をまるめて信長の前に一人出ていったことが、かえって信長の信任を得ることになり、高槻城主としての地位を安堵されました。
本能寺の変後は豊臣秀吉に従い武功を立てながら、同時に布教活動にも邁進しキリシタン大名としても名を上げます。その過程で領内の寺社を破壊し僧侶や神官を迫害したため、北摂の古い寺社が衰退したと言われています。実際右近が高槻城主だった時代に破壊されたと伝わる寺社は多く、以前投稿した勝尾寺や瀧安寺、総持寺のほか、伊勢寺、神峯山寺などが挙げられますが、これらがすべて右近によって破壊されたとは限らず、信長や村重によるものもあるようです。当時の有力寺社は、軍事的な力も備えていましたし、地域の経済基盤を担う存在でもあったので、そこを統制することが領主としては重要でした。キリシタン大名であれば布教という大切な目的が加わりますので、古社寺を押さえる重要性はなおのことだったのでしょう。
棚田の方向に歩いていくと、山裾に住吉神社が鎮座していました。
創建時期など詳しいことはわかりませんが、古社の雰囲気が漂っています。
御祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三柱です。住吉の神々は信長や秀吉など多くの武将に崇拝されていました。
多くの古社寺が破壊される中、午頭天皇や八幡宮や春日、稲荷、天照大神、天満宮は神国の名神であることから破却を免れたと『摂津名所図会』にあります。とくに午頭天皇は信長の産土神として信仰が篤く、手がつけられなかったといいます。
この住吉神社がいつからここに鎮座しているのははわかりませんが、もし右近の時代に既にあったのだとしたら、あくまでも想像ですが、破壊されずに残っているのはこれも信長への恩によるものなのかと。
高山右近の生誕地である高山には、先ほどの生誕地の碑の他にも右近を顕彰する場所があります。朝市会場のあるコミュニティーセンター「右近の郷」前に立つ高山右近と志野夫妻の石像がそれで、地元の自治会や企業などの寄付で作られたようですが、高額寄付者の名前を刻んだプレートには箕面の瀧安寺の名を見つけました。
高山氏が高槻城主だった時代に破壊されたと伝わる寺社の中に、瀧安寺も含まれているのは先ほど触れた通りですが、瀧安寺は右近ではなく信長によって破壊されたと言われていますので、こうして右近像の寄進にも名を連ねているのかもしれません。
寺社破壊の話が先行しましたが、これは先ほども触れたように、すべてが右近によるものとは限らず、右近の影響で領民の多くがキリシタンとなり、寺社が不要になったために打ち壊されたという可能性や、右近ではなく信長や村重によるものである可能性もあります。おそらく個々に事情が異なりますので、一括りにはできませんが、右近のキリスト教への信仰が並外れて篤かったということは確かです。
右近の信仰の篤さは、京都に南蛮寺を建設したり、安土城下にセミナリヨを建設する際に援助をしたりといったことに加え、蒲生氏郷や黒田官兵衛といった戦国武将たちを入信に導いたように精神面の影響の大きさからもうかがうことができます。
領民の七割近くがキリシタンになるほどキリシタン大名としての右近の影響力は絶大でしたが、天正十五年(一五八七)秀吉によりバテレン追放令が出され、右近の立場も苦しいものになります。けれども右近は領地と財産を捨て信仰を守ることに徹します。加賀の前田家に身を寄せるも、家康による伴天連追放之令(キリシタン禁教令)によってマニラへと旅立ち、マニラ到着後程なく病により亡くなっています。慶長二十年(一六一五)、享年六十三でした。
北摂には禁教令以後も信仰を護り続けてきた人々がいました。現在の茨木市千提寺や音羽地区からは様々な信仰の遺物が発見され、市立キリシタン遺物資料館に保管されています。以前訪れたことがありますが、そうした遺物を目にするとキリシタン住民もまた命がけで信仰を守ってきたことがわかります。
右近や住民たちのキリスト教への思いは、北摂に古社寺が少ないことと背中合わせです。右近に近づくべく、これを機にもう少し北摂のキリシタン関連の場所を訪ねてみたくなりました。
季節は少しずつ秋に向かっています。
右近没後四百年にあたる二〇一五年、右近は地位を捨て信仰を貫いた殉教者であるとして福者の認定をローマ教皇庁に申請したこと承認され、二〇一七年に右近の列福式が行われたそうです。