再び大阪北部三島地域の鴨氏にゆかりの場所へ。
先月投稿した三島鴨神社から北西におよそ二、五キロ、鴨神社から南におよそ三キロの安威川沿いに、溝咋神社という式内社が鎮座しています。
溝咋というのは、当社にお祀りされている溝咋玉櫛媛命や三島溝咋耳命に由来します。溝咋耳の耳は長の意味で、この一族は、古代安威川周辺の水利を管理していたとされます。農業水路に杭を打ち込み流れを管理するということからの名前のような気もしますが、確かなことはわかりません。それはともかく、当社はその一族を三代にわたってお祀りしています。
早速御祭神を見ていきますと、主祭神は媛蹈鞴五十鈴媛命とその母にあたる溝咋玉櫛媛命。媛蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后になられたとされます。相殿には、媛蹈鞴五十鈴媛命の祖父、あるいは溝咋玉櫛媛命の父にあたる溝咋耳命や媛蹈鞴五十鈴媛命の兄にあたる天日方奇日方命、それに素戔嗚尊、天児屋根命がお祀りされています。
神社の現住所茨木市五十鈴町は、媛蹈鞴五十鈴媛命にちなんで近年つけられたもので、以前は三島郡の溝咋村でした。(溝咋村と宮島村が合併し、昭和十年に玉島村になっています)どちらにしても、この土地と御祭神との繋がりの深さが伺えます。
五十鈴媛の誕生について記紀に記述が見られます。『古事記』では三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売を大物主神が見初め、用を足しているときに丹塗矢で陰部を突いたため、驚いてその矢を床の辺に置いたところ、矢は麗しい男になり、二人は夫婦となって富登多多良伊須須岐比売(五十鈴媛)が生まれたとしています。
他方『日本書紀』では神代紀第八段に、大三輪神の子として甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫の名をあげているのと同時に、事代主神が八尋熊鰐になって三島の三島溝樴姫(玉櫛姫)の元に通い、姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれ、後に神武天皇の后になったとしています。神武天皇の庚申年にも同様の記述が見られますが、これによると大三輪神=事代主神ということになります。またそれに先立つ記述には、大国主神=大物主神=大己貴神で、大三輪神は大己貴神の幸魂奇魂としています。
一番の違いは五十鈴媛の父親を『古事記』は大物主神、『日本書紀』は事代主神としていることで、『日本書紀』の記述に従えば事代主神も大物主神もすべて出雲に起源があることになりますが、三島鴨神社のところでも触れたように事代主神は大和国葛城の鴨族が祖神として奉仕する神さまです。溝咋神社の御祭神や記紀が伝える内容から、三島の溝咋耳一族と葛城の鴨族の婚姻を通じての接近が当社に伝承されているのではと想像しています。
実際、溝咋神社境内に境内社がいくつかありますが、そのうちの一つは事代主神をお祀りしています。(二〇一八年の大阪北部地震で建物が被災し建て替えられたため、社殿は新しいですが、以前は瓦屋根の落ち着いた社殿でした)
五十鈴媛の誕生にまつわる話は、京都上賀茂神社の御祭神賀茂別雷命の誕生について『山城国風土』逸文が伝える話によく似ています。すなわち、川から流れてきた丹塗矢によって玉依姫命が懐妊し、賀茂別雷命が誕生したというものですが、この種の生誕伝承は鴨族に共通するものなのかもしれず、類似の伝承のもとに鴨族の存在を知ることもできそうです。
ところで媛蹈鞴五十鈴媛命は『古事記』では富登多多良伊須須岐比売と記されますが、母にあたる溝咋玉櫛媛命も勢夜陀多良比売とあり、親子で名前にタタラを冠しています。タタラから連想するのは製鉄、五十鈴媛の母方の溝咋耳の一族は、安威川の水利を管理すると同時に製鉄にも関係していたのかもしれません。
三島鴨神社のところでも触れましたが、三島鴨神社から西に五キロ、溝咋神社からですと南西に二キロほどのところに、東奈良遺跡という弥生時代から中世までの大規模集落遺跡があり、工房跡から銅鐸の鋳型が多数出土しました。当時の日本列島における最大規模の銅鐸の工房だったとされますが、溝咋耳の一族はそれに関わった技術者集団の流れを汲んでいる可能性もありそうです。
溝咋神社にお参りに行ったとき、長い参道の先に堂々とした神門を構え、その奥に唐破風の付いた屋根がのぞく境内の雰囲気に、溝咋耳の一族の力の大きさを感じました。現在は周辺が宅地化され、参道脇には住宅が建ち並んでいますが、かつては境内全体がより深閑としていたのではと想像します。
一の鳥居をくぐり、緑の参道を進んだ先、道路を挟んで朱色の二の鳥居が立っています。
二の鳥居の奥に注連縄の張られた神門がそびえ、境内に誘われます。
社殿は寛保二年(一七四二)の再建ですが、その佇まいは重厚感にあふれ、歴史を感じさせます。
ちなみに、明治まで当社は上の宮と下の宮に分かれており、当地から北東に五百メートルほどの安威川対岸に、媛蹈鞴五十鈴媛命上の宮があり、当地は母にあたる溝咋玉櫛媛命をお祀りする下の宮でした。上の宮があった場所には石碑が立っているそうです。創建当初から分かれていたのか、また安威川の流れも現在と変わらないのかどうかわかりませんが、川の両側に神社があったということは、安威川の流れを掌握していたことを示しているような気もします。