前回投稿した近江八幡の賀茂神社で、カモの神とそれを奉祀するカモ族と呼ばれる人たちにいくつかの系統があると書きました。複雑で不明な点の多いカモは、かえってその複雑さゆえ頭から離れません。地図を見たついでにカモ(鴨、賀茂、加茂)と名の付く地名や神社を探すのが一つの楽しみになりつつありますが、この間大まかに見た限りでは沿岸部や川沿いにカモの足跡が見られるようで、その数は思っていたより多そうです。
今回はカモの足跡を追う中で目に留まった兵庫県の川西市に鎮座する鴨神社を取り上げます。
川西市はかつて大阪の北中部と合わせ摂津国の範囲だったところで、現在は猪名川を挟んで大阪府と接しています。古墳時代には流域にいくつもの古墳が築かれヤマト王権との強い結びつきがうかがえますし、中世には以前投稿した多田神社を中心とした川辺郡多田庄が初期清和源氏の本拠地となりましたが、猪名川流域はそれをはるかに遡った旧石器時代から人の暮らしの営みがあったところで、鴨神社の鎮座地がまさにその歴史を伝える場所になっています。
それは加茂遺跡(国指定史跡)と呼ばれる弥生時代の大規模集落遺跡です。集落は猪名川の西に広がる伊丹台地の北東端に位置し、遺跡の東と北は比高差二十メートル近い急峻な崖になっており、崖の裾には猪名川の支流最明寺川が流れています。
明治四十四年(一九一一)に台地東の崖裾から採土中に偶然大型の銅鐸が出土し、その後大正四年(一九一五)には鴨神社周辺からも多数の石器や土器が見つかったことで、集落遺跡の存在が明らかになりました。発見された銅鐸は高さは百十四センチほどと大型で、二世紀頃のものと考えられるそうです。栄根銅鐸と呼ばれ、現物は東京国立博物館に所蔵されていますが、この銅鐸が見つかったことで、当地で首長を中心とした祭祀が行われていた可能性がみえてきました。本格的な発掘調査がなされたのは昭和二十七年(一九五二)からで、その調査により十ヘクタール規模の弥生時代中期の大規模集落がそこにあったとわかり、さらに昭和四十年代からは周辺の開発が進み始めたためにさらなる調査が行われ、加茂遺跡は旧石器・縄文時代から平安時代に至る集落跡で、弥生時代中期の集落は先に考えられていた十ヘクタールの二倍の二十ヘクタールに及ぶことがわかりました。以前投稿した高槻市の安満遺跡が二十二ヘクタールなので、それより少し狭いですが同程度の規模です。弥生時代中期の集落遺跡は、居住区域と墓域からなり、居住の中心は遺跡東側、現在の鴨神社周辺で、その周辺は環濠に囲まれ守られていました。
その様子は下のような感じだったようです。(川西市文化財資料館に許可をいただいて撮影しました)右の丸く囲われたところが中心的な居住区域、その周りを囲う茶色い部分が環濠です。
東の中心居住区内、鴨神社の北側からは大型の掘立柱建物が見つかっていますが、この建物は他の建物と異なり、板塀で囲まれており、首長の住居もしくは宗教的な建物と考えられるようです。銅鐸が発見された場所は、上の模型の右に見える丸く囲われた区域の右下辺りです。
ちなみにこちらは栄根銅鐸のレプリカです。こうして見ると、その大きさに圧倒されます。
川西市文化財資料館には出土品も展示されています。
出土した石器類は狩猟や戦闘に用いられた石鏃や尖頭器、石剣のほか、稲刈りに用いられた石包丁など様々です。周辺から水田跡は見つかっていないようですが、上の集落模型の右下にある舌状の茶色い部分に水田があった可能性があるようです。
加茂遺跡からの出土品は、川西市文化財資料館のほか、地元の宮川雄逸氏が戦前自ら採集した石器類を展示する宮川石器館でも保管されていますが、こうしたものを実際に見ると、現風景からはなかなかイメージしにくい太古に少し近づけるような気がします。
こうした加茂遺跡の上に鎮座する鴨神社に話を移します。最明寺川を越え西に進むと、道は急な上り坂になります。これがまさに加茂遺跡東側の比高差二十メートルの地形を今に伝えるもので、急坂を上りきった先に神社の杜が見えてきます。
一の鳥居と二ノ鳥居の間に、史跡加茂遺跡の石標が立っています。境内にはこれ以外遺跡を示す表示は特にありませんが、弥生時代集落の中心的居住区がここにあったということです。
非常に厚い歴史が堆積した神社の中心に向かって鬱蒼と木々の茂る参道を進むと、奥に朱色の拝殿が見えてきます。
ここにお祀りされている御祭神は別雷神で、創建時期については不明です。この御祭神は京都の賀茂別雷神社と同じ神様ですので、御祭神だけ見ていると当地にこの神様をお祀りしたのは、天神である山城の賀茂県主系統のカモ氏に思えますが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』の摂津国に記されたカモと名の付く氏族は皇別の鴨君と神別の鴨部祝だけです。鴨君は彦坐命(開化天皇第三皇子)の後とも、三輪山の神・大物主神の子とされる大田田根子を祖とし、大和国の葛城地方を本拠地にしていたとも言われます。鴨部祝は賀茂朝臣と同祖で大国主神の後とのことで、地祇の系統です。
奈良県御所市にある鴨都波神社は、葛城の鴨氏(大田田根子の孫・大鴨積命)が事代主神をお祀りしたことに始まると伝わる神社ですが、神社一帯は鴨都波遺跡という弥生時代中期の集落遺跡で、カモ族が農耕を行っていたと考えられています。そこに崇神天皇の時代大鴨積命が事代主神をお祀りし、それにより鴨君の姓を賜ったと伝わることなどから、川西の鴨神社も、カモ族によって農耕が営まれていた土地に、鴨君が事代主神をお祀りしたのが始まりで、後に天神系の別雷神に入れ替わったのではないかと想像したくなります。
摂津国には他にも気になるカモの足跡が見られますので、機会を改めそちらにも足を運んでみようと思っています。