すでにもう一月前になりますが、五月半ばに京都で葵祭のハイライトとも言うべき行列が行われました。四年ぶりの開催ということで、ニュースでも大きく報道されていましたのでご記憶の方も多いかと思います。夏に行われる祇園祭において、山鉾の巡行が祇園祭と思われている節があるように、葵祭も五月十五日(今年は雨のため十六日に順延)に行われる路頭の儀(行列)=葵祭と捉えられがちですが、葵祭と呼ばれるようになったのは江戸時代に祭が再興されてからのことで、それまでは賀茂祭とか北の祭と呼ばれていたように、このお祭は賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、様々な神事によって構成されています。五月一日に賀茂別雷神社で競馬会足汰式、三日に賀茂御祖神社で流鏑馬神事、五日に賀茂別雷神社で賀茂競馬、十二日に賀茂御祖神社で御蔭祭というようにいくつもの前儀があり、路頭の儀当日にもそれぞれの神社に行列が到着した際に、社頭の儀といった重要な神事が行われています。
祭の起源は古く、六世紀欽明天皇の時代に凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため、卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるとして、それをおさめようと馬に鈴を付け駆け比べをさせたところ穀物が実り国家が安泰したということから、九世紀嵯峨天皇の時代に朝廷の重要な祭祀に取り入れられ、宮中祭祀となったと伝わります。勅使らが御所から各神社に赴く路頭の儀は、天皇が勅使を遣わし賀茂の神の神事を執り行ったことに由来します。
ちなみに下の写真は二〇〇六年の路頭の儀の様子です。勅使、検非違使、内蔵使、斎王代らが京都御所を出発し、新緑の美しい加茂街道をゆっくりと進んでいく様子は王朝絵巻さながらで見応えがあります。
前置きが長くなりました。本題の近江八幡の加茂町に鎮座する賀茂神社に話を移します。
当社では京都の賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の御祭神と同じ神々をお祀りしています。同じ御祭神というのは賀茂建角身命、玉依姫命、賀茂別雷命で、当社ではこれら三柱に加え火雷命もお祀りされています。
これらの神々の関係は、『山城国風土』逸文によると次の通りです。神武天皇の先導をした八咫烏(賀茂建角身命)は大和国の葛城から山代の岡田の賀茂(木津川市の岡田鴨神社の辺り)に至り、その後乙訓を経て愛宕に鎮まったということで、玉依姫命は賀茂建角身命の娘にあたり、川から流れてきた丹塗矢によって懐妊し誕生したのが賀茂別雷命です。
これら三柱に加え、当社でお祀りされている火雷命はその名の通り雷神の性格を持つ神ですが、『古事記』において命を落とした伊邪那美命に生じた雷神八柱のうちの一柱です。『山城国風土記』逸文によると火雷神=丹塗矢で、丹塗矢が玉依姫命の元にやってきて、後に賀茂別雷命が生まれたとされていますので、これに従えば賀茂別雷命の父に当たる神ということになります。
ちなみに賀茂氏の始祖伝承の要素を除くと、これらの神々は水を司る性格の神であることがわかります。昨今も大雨の被害が多いですが、現代のように川が整備されていなかった古代において、川の氾濫は現代以上に頻繁だったでしょうから、そのたびに雨が止むようにと祈る気持ちは切実なものがあったはずですし、その一方で干ばつにより作物が実らなくなるのも致命傷ですから雨を願う気持ちもまた切実でした。国の発展は水に大きく左右されます。朝廷が賀茂の神を畏れ、敬ったのはそうした性格を持つ神であるゆえでしょう。
御由緒によると、近江八幡の賀茂神社の創建は奈良時代聖武天皇の天平八年(七三六)ですが、それに先立つ天智天皇の時代、当地に国営の牧場(御猟野乃杜)が置かれていたと伝わっています。『日本書紀』天智天皇七年(六六八)七月に「時に、近江国、武を講ふ。又多に牧を置きて馬を放つ。」とあるように、天智二年(六六三)の白村江の戦いの後、軍備増強の意味合いから馬の繁殖が必要との考えで、天智天皇は近江に国営の牧場を造ったというのです。『日本書紀』には近江国としか書かれていませんが、当地が琵琶湖から一キロ程度と湖上交通の便がよくしかも馬の飼育に適した草原地帯だったので、当地に牧場が設けられたと神社では伝えています。
『日本書紀』の牧場を造ったという記述の少し前には、天智天皇七年五月に天智天皇が蒲生野(現在の近江八幡市の一部も含まれています)に薬猟に訪れたことも記されています。当地は蒲生野への通過地点でもありますので、この由来の通りであるなら、蒲生野に行かれた際当地に目を付けていたかもしれないとも想像できます。
その後養老元年(七一七)元正天皇の時代に、”吉備真備”が朝廷領である当地に勅命で遣わされ、社殿を建てる場所を定めて上奏し、聖武天皇の天平八年に神社が創建されたと神社では伝えています。吉備真備は遣唐使として唐に留学中さまざまな学問や技術を身につけ、天平七年(七三五)に帰国しています。その中に陰陽道もあり、真備が持ち帰った陰陽書を安倍晴明に授けたことから、陰陽道の祖とも呼ばれます。当地には日本中の気が集まるとして陰陽道によって選ばれたと言われるのはそういうことも関係しているのかもしれませんが、そもそも吉備真備は霊亀二年(七一六)から天平七年(七三五)まで唐に留学しており、元正天皇の在位中はほとんど日本にはいなかったはずですから、唐で学んだ陰陽道を元に気の集まる場所として当地が選ばれたというのは無理があるように思います。元正天皇の時代に当地に遣わされたのは吉備真備ではなく、天皇に仕えていた賀茂吉備麻呂のことではないでしょうか。両者は別人物ですが、賀茂氏の系図によっては吉備真備と賀茂吉備麻呂を同一視するものもあるようなので、混同された可能性はありそうです。
元正天皇は甥にあたる聖武天皇がまだ幼少であったため、独身のまま即位したいわば中継ぎ的な役割を担った女帝です。父は天武天皇と持統天皇の皇子である草壁皇子、母は天智天皇と蘇我石川麻呂の娘の間に生まれた阿閇皇女で後に元明天皇になっています。天武天皇亡き後、草壁皇子が即位前に亡くなってしまったため、幼少だった文武天皇に代わって持統天皇が即位し、後に文武天皇へと繋ぎますが、今度は文武天皇亡き後聖武天皇が幼かったため、聖武天皇の祖母にあたる阿閇皇女が元明天皇として即位しました。けれども高齢ということで、その娘にあたる元正天皇に皇位が廻ってきたということです。
近江八幡の賀茂神社では社殿が裏鬼門である南西向きに建てられています。土地の選定にあたっては先ほど書いたように賀茂吉備麻呂と取り違えられている可能性がありそうですが、吉備真備は神社が創建されたという天平八年(七三六)の前年に唐から帰国していますので、社殿の向きについては吉備真備が学んだ陰陽道が取り入れられているということはあるかもしれません。
そうであるなら、裏鬼門を封じて守るべきものは何なのだろうかと気になります。地図を眺めしばらく考えていたところ、当地から北東に六十キロ程離れた岐阜県に不破の関や養老の滝があることに気づきました。不破の関は古代東山道に設置された関所で、壬申の乱の際にはここが閉ざされたことで近江朝廷側が不利になり、大海人皇子軍の勝利がほぼ確実になったとも言われます。『続日本紀』には養老元年に元正天皇が美濃の不破に行宮を造らせ、そこに滞在したことも記されています。養老の滝はそこから近いところにあります。古来養老の滝の水(菊水泉)は若返りの水として聞こえており、その噂は元正天皇の耳にも入っていたようで、元正天皇は在位中二度も養老の滝を訪れていますし、聖武天皇も行幸されています。『続日本紀』にはその水で顔を洗ったところ、肌が滑らかになり痛むところも治ってしまったとありますので、それなりの効用はあったのでしょう。若返りの水として喜ばれたようですが、外見上の若返りもさることながら、体の若返りに効果的として喜ばれたのではないでしょうか。いつの時代も不老長寿が願われますし、ましてや元正天皇は甥に皇位を無事に引き継ぐという使命がありました。元正天皇が聖武天皇に皇位を譲ったのは、元正天皇が四十四歳のときで当時としてはかなりの高齢でしたから、菊水泉は自身の健康や寿命ばかりか天武系の流れを繋ぐために大切な霊泉だったのではないでしょうか。ちなみに元正天皇は即位二年後に元号を養老に改めています。元正天皇にとって養老がいかに大切なものだったかがうかがえます。
社地の選定は元正天皇の時代、神社の創建は聖武天皇の時代と伝わります。それを信じた上での話になりますが、聖武天皇即位後も病弱だった聖武天皇を元正天皇が補佐していたとも言われることから、賀茂神社の創建には退位した元正天皇の意向があったかもしれないと、ここに記したような空想に遊んでみました。
賀茂神社の境内は現在三万坪ほどだそうです。かつてはもっと広大な境内を擁していたようですが、現在も社殿の北には木々の茂る杜が続いています。
神社の杜を歩いていたら、小高くなったところに注連縄が巡らされていました。
小さな山が二つあり、その頂上を結ぶ線が東西を示し、ここと本殿は南北線上にあるとのことで、陰陽道の影響を伝えていますが、この齋庭《ゆにわ》はもっと古くからのもので、ここははるか古代の祭祀場跡でしょう。琵琶湖周辺で発見された多くの古代遺跡に思いが至りました。
当地から南に十キロほどの野洲市の大岩山からは二十四点の銅鐸が見つかっており、そのうちの一点は日本最大です。二十四点という数は、島根県の加茂岩倉遺跡で三十九点の銅鐸が見つかるまで日本最多だったことからも、当地周辺に強大な首長がいた可能性がうかがえます。
また当地から南西に十キロほどの守山市では弥生時代初期の水田跡である服部遺跡、弥生時代中期の環濠集落跡である下之郷遺跡、弥生時代後期の伊勢遺跡などが見つかっていますし、当地の北東十キロほどの大中の湖南遺跡からも弥生時代中期初頭の水田跡が見つかっています。いずれも十数キロ圏内、琵琶湖東岸が古くから開けた土地だったことを伝える遺跡です。
銅鐸は農耕祭祀に用いられた祭器と考えられ、一説には賀茂氏は銅鐸文化と関係があるようですし、稲作を広めるのにも貢献したとも言われます。とすると、当地で古代祈りを捧げたのも賀茂氏だったのでしょうか。
賀茂氏については、神武天皇の東征を先導した八咫烏つまり建角身を祖とする賀茂県主だけでなく、大和国の葛城にも神武東征以前からカモ族がいましたし、開化天皇の第三皇子彦坐王の系統にもカモと名乗る一族がいたようで、その実態は複雑でわからないことが多く、関心の強さとは裏腹に向き合おうとするといつも迷路に入り込み身動きが取れなくなります。
カモと名の付く神社は全国に多数あります。平安時代の末頃から賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園が各地に広がり、そこにカモの神も勧進されたことでカモと名の付く神社も増えたようですが、乙訓坐大雷神社や岡田鴨神社のようにもっと古い時代のカモと名乗る人たちの足跡を伝える神社もあり、由来はさまざまです。近江八幡の賀茂神社はというと、齋庭の存在から後者の可能性を考えたくなりました。
弥生時代に農耕を営み豊作繁栄を願って祭祀が行われていた土地に、その後さまざまな歴史が重なって賀茂神社が創建され、現在に至っているのかもしれないと思うと、ここに気が集まっていると言われるのもわかる気がします。
想像の話が多くなってしまいましたので、最後に実際に行われている神事のことを。
近江八幡の賀茂神社でも、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)同様馬の存在が欠かせません。葵祭の前議として賀茂競馬が行われますが、当社でも五月の賀茂祭で足伏走馬と呼ばれる競馬が行われます。神社の南西に幅十メートル、距離にして四百メートルほどの馬場があり、そこを七頭の馬が疾走する様子は勇壮で見応えがあるそうです。
上は賀茂神社の杜。神社は田園風景の中にあります。ここを訪れたのは稲刈りが終わった秋でした。今ならきっと青い田圃が広がっているでしょう。