喜連の環濠集落はゆっくり歩いても四十分程度で一周できる規模ですが、町中に一歩足を踏み入れると、その規模に比して数多くの寺社が目に付きます。場所によっては建て替えが進み新建材の家々が建ち並んでいる区画もありますが、寺社の周辺は趣ある町並が見られます。今回は喜連の町を南北に貫く中高野街道と、東西に貫く中小路を歩きながら目に留まった喜連の町並をご紹介します。
北口地蔵堂から中高野街道を南に八十メートルほど行くと、楯原神社の西の鳥居が見えてきます。
楯原神社は崇神天皇七年、現在の喜連西一丁目にあたる楯原に創建されたと伝わる古社で、『延喜式』神名帳において摂津国住吉郡の楯原神社に比定されています。
崇神天皇の時代の創建ということはありえませんが、『日本書紀』雄略天皇十四年に「呉の客の道を為りて、磯歯津路に通す。呉坂と名く」とあるように、住吉津で上陸した海外からの使節が東に向かう際に利用したとされる道が喜連を通っていたと言われており、当社と住吉大社との関係も指摘されていますので、倭国が統一されていく中で当地と何らかの関わりを持った人たちの足跡が楯原神社の歴史にも現れているのかもしれません。古社によくあるように、楯原神社の創建由来には不明な点が多く、その後の経緯も複雑で一筋縄にはいきません。喜連に伝わる伝承などを記した「北村某の家記」(『大阪府全志』大正十一年 に収録)には、当地と古代豪族息長氏との関係をうかがわせる記述も見られ、その信憑性も含めてもう少し考えたり調べたりする必要がありますが、古代の大阪の重要性を伝える鍵がこの神社の歴史に秘められているかもしれません。楯原神社については、機会を改め取り上げたいと思っています。
楯原神社はかつて神宮寺だった如願寺(真言宗)と敷地内で繋がっています。如願寺は喜連の環濠集落(一)でも簡単に触れたように、聖徳太子による創建、空海による中興と伝わります。御本尊は聖観世音菩薩、欅の一木造りで平安時代初期のものと考えられるそうです。普段は非公開ですが、八月九日と十日の千日會でご開帳されます。また本堂の向かって右には地蔵菩薩像が安置されています。寄せ木造りですが、体部の根幹はほぼ一木造りとのことで、こちらは平安時代後期の作と伝わります。
楯原神社西の鳥居から中高野街道を二十メートルほど南に行くと、中小路との交差点に出ます。下は交差点南から北を見たところで、右手に見える木立が楯原神社の社叢です。
中小路交差点から南は、道幅が急に狭まり、旧道らしい雰囲気になります。
上は中谷家。明治二十年(一八八七)の建物ですが、黒漆喰や虫籠窓などが街道に風情を添えています。この建物を過ぎると、右に屋敷小路と呼ばれる細い路地があります(写真下)。道を挟んだ向かいの建物も中谷家で、こちらは嘉永五年(一八五二)の建物が残っています。
こちらは屋敷小路を西から見たところで、突き当たりが中高野街道です。手前左も中谷家。明治の建物ですが、江戸の様式で建てられた村で最後のものだそうです。
中高野街道に近づくと、中谷家の煙出しがよく見えます。屋敷小路は道の左右に古い建物が残っていることもあり、喜連の中でも古道の雰囲気を最もよく残しています。
中高野街道に戻ると、左には専念寺。正面入り口は一本東の街道沿いにありますので、専念寺については後ほど触れます。専念寺から百メートルほど南に行くと環濠跡の道に出ます。
今度は中高野街道と中小路の交差点に戻り、東に歩いてみます。写真下左の建物は宮川家。天保十年の設計図が残っているとのこと。この先の左右に交わる道が、中高野街道の一本東の道で、この道は楯原神社の南鳥居から一直線に南下しています。
上はこの道を南から見たところで突き当たりに楯原神社が見えますが、喜連の中でも道幅が一番広く、幅七間、長さ八十間で、馬場として使われていたそうです。その道の中程に先ほど触れた専念寺があります。
専念寺は融通念仏宗のお寺で、寺伝によると慶長二年(一五九七)の創建です。現在の本堂は安永四年(一七七五)の再建。
今度は中高野街道と中小路の交差点から西に歩いていくと、専称寺と寶圓寺が並んで建っています。
専称寺は元亀二年(一五七一)本願末寺の道場として開かれたことに始まり、承応元年(一六五二)に西本願寺より免許され寺院になったと伝わります。
西に隣接する寶圓寺も、蓮如の盟友慈願寺の法円に帰依する門徒衆によって興された西喜連村惣道場が始まりで、元和七年(一六二一)東本願寺から阿弥陀如来を下付され寺院化、寛永七年(一六三〇)に寶圓寺を名乗ったそうです。本堂は宝永の地震後の再建です。偶然ご住職が出てこられ、本堂にお詣りさせていただきましたが、大変手の込んだ欄間が残っており、当時の寺勢に感じ入りました。
ちなみに専称寺から南に延びる道も風情があります。専称寺の斜め向かいには文化八年(一八一一)築の辻江家。角には土蔵が建ちます。
辻江家の土蔵から二十メートルほど南に行くと、右手に見えてくるのは明治二十二年(一八八九)築の木村家です。
喜連はごく普通に人々が暮らす閑静な住宅街ですが、細い路地を歩いていると、かつての喜連を彷彿とさせる家々に出会います。これらは喜連の歴史を伝える生き証人です。こうした喜連の町並を守り、歴史を伝える活動が寶圓寺のご住職を中心に住民の方たちの手によって継続して行われています。旧家が多いので古文書など史料も残っており、そうしたものを検証し外に向かって発信する活動も行われています。土地への愛着、愛情は歴史を知ることで一層深まると常々思っていますが、その好例を喜連で見せていただきました。