公園や並木道で空間を埋めつくすように咲く染井吉野はオーケストラのトゥッティのように華やかで、途切れることなく連続する桜の下を歩いていると、合奏のうねりに身を委ねているときのような心地がします。染井吉野は一本でも美しいけれど、群れることで一層魅力を増す品種なのかもしれません。生長が早くすぐに花を付けるので、好んで各地で植えられてきた染井吉野ですが、てんぐ巣病という伝染病に罹りやすく、感染した枝をそのままにしておくと花が咲かなくなるばかりか木が枯れてしまうことから、病気の拡大を懸念して二〇〇九年に染井吉野の苗木の販売を中止したそうです。ただでさえ寿命の短い品種なので、将来染井吉野のトゥッティを聴くことができなくなるかもしれません。桜には様々な種類があるのに、染井吉野に人気が集中しすぎた弊害が出てきたようです。
先日、一本桜として知られる樹齢三百年の枝垂れ桜、又兵衛桜を見ました。場所は奈良県宇陀市大宇陀本郷、長谷寺から南に約八キロ、談山神社から東に約五キロほどの大和高原南端の山あいです。早朝まだ雨の残る奈良盆地を東に向かい、大和高原の丘陵に入っていく頃にはほとんど雨が上がっていました。車から降りると、空気は冷たく、一瞬身震いしましたが、川向こうにそこだけ春驟雨が天から降り注ぐように咲く又兵衛桜を見たときは、体ばかりか心が震えました。染井吉野の群生がオーケストラのトゥッティなら、こちらは実力と風格を兼ね備えたソリストです。樹高は十三メートルほど。瀧のように枝垂れ咲くことから、本郷の瀧桜とも呼ばれます。
又兵衛桜というのは、戦国武将後藤基次の通称又兵衛に由来します。後藤基次は永禄三年(一五六〇)播磨国の生まれ。豊前の黒田氏に養われ孝高、長政父子に仕え、関ヶ原の戦いにも出陣するなど数々の武功をあげます。大坂の役では豊臣秀頼に従い勇戦しますが、道明寺で戦死を遂げています。ところが戦禍を生きのびたという伝説も各地に伝わっており、宇陀もその一つです。ここでは戦禍を逃れた基次は宇陀に落ち延び、豊臣家再興の時を待っていましたが、時代が変わり徳川の天下になると、僧侶となり豊臣方の武士たちの霊を弔ったといいます。その際名を後藤から水貝に変えたとのことで、薬師寺にはお墓もあるそうです。
又兵衛桜があるのは、当地に落ち延びた後藤基次の屋敷跡と伝わります。伝説の真偽はともかく、三百年近い歳月この地に根を張り、生長を続け、毎年花を咲かせ続けてきた生命力を前に、言葉を失います。
青空は望めませんでしたが、撮影にはむしろちょうどよい薄曇りです。宇田川の支流本郷川を挟んだ対岸からまず眺め、木の真下から見上げ、ぐるり木の後ろに回り込み、また真下から見上げ…と、どこから見ても圧巻の又兵衛桜を是非ご覧ください。
又兵衛桜を祝福するように、周囲には白木蓮や桃、その他さまざまな種類の桜が花開き、川岸の斜面では水仙も満開です。
ちなみに又兵衛桜から東に百メートル少し行ったところに、北向き地蔵の桜と呼ばれる桜があります。
北向きに祀られている小さな石のお地蔵様を包み込むような桜ですが、あいにく開花にはもう少しかかりそうです。
樹齢は不明ながら、これもかなりの古木に見えます。満開の姿はさぞや趣き深いことでしょう。
宇陀のこの辺りは古代宮廷の狩場で阿騎野と呼ばれていました。有名な柿ノ本人麻呂の歌「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」は、軽皇子(後の文武天皇)のお供に随行した人麻呂が、皇子の亡父草壁皇子を沈んでいく月に見立て、後継者となる軽皇子を称えて詠んだ歌です。凍てつく冬の明け方、沈んでいく月に対し、東の空が赤く染まる情景は雄大でドラマチックですが、三百年もの年月を知る又兵衛もまた雄大でドラマチックに思えます。