古社寺風景

屯倉神社

季節が急に前進しています。種類によっては桜が満開を迎えているようですが、もう一つ梅にまつわる話題を。

城南宮の枝垂れ梅は圧巻でしたが、実はその数日前にも枝垂れ梅との予期せぬ出会いがありました。

大阪の中南部、平野や喜連瓜破きれうりわりを経て河内長野に向かう中高野街道を歩いていたときのことです。大和川を越えて南に一キロほど行ったあたりだったでしょうか、松原市三宅中に鎮座する屯倉みやけ神社でお詣りがてら少し休んでいこうと朱色の鳥居をくぐったところ、大きく枝を広げた満開の枝垂れ梅が出迎えてくれたのです。

 

朱の鳥居をくぐり右に折れると注連柱が立ち、そこから続く参道の両側にご覧のような枝垂れ梅が辺り一面をピンク色に染めていました

注連柱には菅原道真が十一才のときに詠んだという「月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡轉 庭上玉房馨」(月の耀くは晴れたる雪のごとし 梅花は照れる星に似たり 哀れぶべし金鏡の転じて 庭上に玉房の馨れることを)が刻まれています。朱の鳥居の扁額にも天満宮とあるように、ここは菅原道真に縁の神社ですから境内に梅が植えられているのでしょうが、枝垂れ梅というのは変化球です。しかも屯倉神社でこれだけの枝垂れ梅を目にするとは思ってもいなかったので、この景色を目にした瞬間胸が躍りました。

神社の創建由来については後ほど触れることにして、まずは春の光を満身に浴びた満開の枝垂れ梅をご覧ください。

 

 

この日は雲一つない快晴で、枝垂れ梅の濃いピンクが照り映えていました。

 

こちらが拝殿。菅原道真公を主祭神に、須佐之男命と品陀別命ほむたわけのみこと(応神天皇)がお祀りされています。本殿には等身大の道真公の神像も安置されているそうですが、当社に道真公がお祀りされるようになったのは天慶五年(九四二)で、それまでは穂日の社と呼ばれ、天穂日命あめのほひのみことがお祀りされていました。天穂日命は神話において天照大神と須佐之男命の誓約うけいの際に生まれた五男三女神のうちの一柱で、古代土師氏の始祖とされています。菅原道真も土師氏をルーツとしていますので、平安時代ここに道真公がお祀りされるようになったのは自然な流れかと思います。

土師氏といってすぐに思い浮かぶのは、当神社から南東に五、六キロのところにある土師ノ里という駅名です。現在の藤井寺市で、土師という地名はなく駅名にかろうじて土師が残っているだけですが、そこは古代豪族土師氏が本拠地としたところで、以前投稿した道明寺天満宮は以前は土師神社といって土師氏の祖天穂日命をお祀りする神社でしたし、隣接する道明寺は土師氏の氏寺でした。

土師という地名は現在の松原市にもあったようです。古代松原市は丹比郡たじひのこおりに属しており、丹比郡にも土師里という地名があったことが「和名類聚抄」からわかります。実際それが現在のどのあたりに相当するのかは不明ですが、松原市によると候補は二箇所あり、一つは近鉄河内松原駅の南東一、五キロほどのところの立部、もう一つは河内松原駅南東の上田だそうです。いずれも屯倉神社のある三宅から数キロ南ですが、もしいずれかが古代の丹比郡土師里だったとしたら、屯倉神社から非常に近い距離に土師氏の拠点があったことになります。土師氏は古墳の造営や葬送に大きく貢献したことが知られますが、百舌鳥や古市の大古墳群の造営にも関わったとされています。現在の松原市はその両古墳のちょうど中間あたりに位置していますので、そういうところに土師氏の足跡が見られるのは不思議ではありません。

また中高野街道を挟んだ屯倉神社の南西に土師ヶ塚という小字が見られますが、かつてそこに古墳らしき塚のようなものがあったと伝承されています。そうしたことを知ると、ますます当地も土師氏の拠点の一つだったのではないかという気がしてきます。

境内に安置されている神形石と呼ばれるこちらの自然石は、何となく古墳石室の一部のようにも見えます。実際のところはわかりませんが、この近くにあったという古墳の一部だとしたらと想像が膨らみます。

 

 

ところで屯倉神社の主祭神は、平安時代以降道真公になりますが、その際社名が依羅三宅よさみみやけ天満宮になったようです。そこにも当社と当地の歴史を垣間見ることができます。

依羅三宅は、古代において朝廷直轄の農地だった依羅よさみにおいて収穫した稲を収める倉庫の置かれた屯倉に由来します。依羅のことは以前投稿した大依羅神社依網池のところでも触れていますので、ご関心のある方はご覧いただけたらと思いますが、依網(依羅)は河内国丹比郡依網郷(現在の松原市天美地区の城連寺、池内、油上ゆかみ、芝、我堂、堀や、同郡三宅郷の松原市北部)や摂津国住吉郡大羅郷(現在の大阪市住吉区大庭周辺)がそれに相当すると考えられていて、まさに屯倉神社のある辺りもその範囲内です。

依羅が開鑿されたのは依網池築造と同時代の五世紀頃ではないかとされています。それは百舌鳥や古市古墳が築かれた時代とも重なります。依網開発の土木工事に関わった中に土師氏も含まれていたのではと想像するのは楽しいことです。

 

ちなみに境内北には境内社の酒屋神社があります。酒屋神社は屯倉神社の北西に元々あった式内社で、明治になってから屯倉神社に合祀されています。ここにお祀りされているのは中臣酒屋連が祖神とする津速魂命《つはやむすびのみこと》です。中臣酒屋連は朝廷の神事や祭祀を司っていた中臣氏と同族ですが、その名からもわかるように屯倉の米から酒を造り朝廷に献上していたようです。

機会を見つけ訪ねてきた場所は最初点でしかありませんが、それが少しずつ増えていくと、線となって繋がっていきます。現在はまだ部分的に線が見え始めた程度ですが、これからも引き続き点を増やし、点と点を結んで見えてくる線から、何かつかむことができたらと思っています。一処から一つずつ花開いていく梅が満開になったこの日、そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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