春に向かって一歩前に踏み出したかと思うとまた一歩後退する日々ですが、春に向かう歩幅の方が大きいので、多少後退したとしても少しずつ前進しています。その証拠にあちらこちらで梅が咲き始めました。梅は桜に比べて扱いやすいこともあってか、かつては庭木として梅を植える家が多く見られました。何気ない日常の暮らしの中で、通りを歩いているとどこからともなく良い香りが風に乗って運ばれてきます。ふと周りを見渡すと、とあるお宅の庭先で小雪が舞い下りたように白梅が小さな花を付けている。かつてはそんな光景をよく目にしたものです。芳香を放つということでは秋の金木犀も同様で、こうした匂やかな花木は季節を伝える使者でもありますが、最近は住宅事情が変化しているせいか、身近なところで季節の使者に出会う機会が減っています。それでも、寺社や古くからの民家が点在する旧道沿いにはまだ使者たちが身を置く場所があるようで、先日も大阪の守口から大阪平野を南に向かって歩いている途中、室町時代に創建された護念寺(世木御堂)に咲く鮮やかな紅梅に眼が留まりました。ときおり小雪が舞う寒空でしたが、満開の梅の力で雪片も吹き飛ばされ、そこだけぽっと春の灯りがともったようでした。
さて今回は、護念寺からさらに四キロほど南の放出に鎮座する阿遅速雄神社を取り上げます。
大阪に馴染みのある人は別にして、放出を「はなてん」と読める人はそう多くはないでしょう。場所は寝屋川と第二寝屋川に挟まれた大阪市の鶴見区から城東区にまたがる一帯で、二キロ少し西に行くと大阪城があります。放出の由来には諸説あります。古代このあたりは河内潟湖で淀川への放出口に当たっており、「はなちで」が「はなてん」に転訛したという説や、難波入江に突き出ていたことから鼻出とか端出と呼ばれていたものが「放出」に変化したという説、また熱田神宮に安置されていた三種の神器の一つ草薙剣を新羅の僧道行が盗み出した際、船が難破したことから難波入江に草薙剣を放り出し逃亡したことから「放出」になった説などがあります。古代の大阪は、生駒山地の近くまで海水が入り込んでおり、周辺の河川がもたらす土砂でデルタ地帯になっていましたが、上町台地の北が堆積した土砂によって伸びたことで低地は海と切り離され、やがて河内湖になったという歴史があります。上の二つの説はそうした古代の地形に照らすと、どちらもありえるような気がします。地名の由来はともかく、河内湖から大阪平野が生まれていった土地の歴史の中に、阿遅速雄神社の創建を重ねてみる必要がありそうです。
社伝によると、阿遅速雄神社は味耜高彦根神が当地に降臨し土地を拓き農耕の技術を伝授したことから、当地の守護神としてお祀りされたとのことです。味耜高彦根神は『古事記』によると大国主命と宗像三女神の一柱・多紀理毘売命との間に生まれ、阿遅鉏高日子根神、阿治志貴高日子根神、迦毛大御神などとも表記されます。アヂは可美(ウマシ)の美称、スキは鉏、タカヒコネは敬称ということで、農具を神格化しています。迦毛大御神とも記されるように元は大和国葛城地方の鴨氏がお祀りしていた神さまのようです。大御神は神さまの敬称としては最高のものですから、この神名から味耜高彦根神(迦毛大御神)とこの神さまを奉祀する氏族の力の大きさがうかがえます。ちなみに下の写真は奈良県御所市の高鴨神社ですが、ここでは阿治志貴高日子根神をお祀りしています。御所市には他に二社鴨氏に縁の神社があり、高鴨神社が上鴨社、葛城御歳神社が中鴨社、鴨都波神社が下鴨社と呼ばれ、高鴨神社は鴨氏発祥の地とされています。この三社は数年前葛城古道を歩いた際お詣りに立ち寄り、葛城地方と鴨氏の関係を知り大変興味を持ちましたが、なにぶんにも難しくて保留にしていたところでした。このたびの再会をきっかけに、また鴨氏のことも少しずつ掘り下げていきたいと思いますが、それはさておき葛城の高鴨神社と放出の阿遅速雄神社が同じ神さまをお祀りしています。間に金剛山を挟み三十キロ以上も離れている葛城と放出を結びつけるものとして、川の存在が浮かび上がります。
高鴨神社の近くを流れる葛城川は北に向かって流れると曽我川に合流し、まもなく大和川となってさらに北に進みます。かつての大和川は分流しながら大阪平野を北に向かい、放出付近で寝屋川に合流し大阪湾に注いでいました。葛城を本拠地として勢力を拡大していった鴨氏にとって河口付近は重要な場所だったでしょう。土地を拓き農耕を伝えたかどうかは別にして、要地としてそこに祖神をお祀りしたと言うことではないかと想像します。
阿遅速雄神社はもとは高台にありましたが、明治に鉄道(現・学研都市線)を通すため現在地に遷されたとのことです。あいにく旧社地がどこだったのかは不明です。社殿は海のある西を背に東向きに建てられています。
ちなみに入り口に設けられた門は、明治時代に近くの薩摩屋敷から移築したものだとか。
ところで当社には味耜高彦根神と共に八劔大神が配祀されています。神社では八劔大神を草薙御神劔御神霊とし、江戸時代にはむしろこちらを全面に出して八剣神社と言っていたようです(江戸中期に当社が延喜式内社の阿遅速雄神社に当たるとされ、それ以後阿遅速雄神社と呼ばれたようです)が、なぜ当地に草薙剣の御神霊がお祀りされているのかということについて、次のように伝わっています。
天智天皇の御代に新羅の僧道行が尾張国熱田宮に安置されていた草薙御劔を盗み出し、船で本国へ持ち出そうとした帰途、難波の津で大嵐に遭い、それを神罰として恐れをなした道行は御劔を放り出して逃げ去った。(放手が放出はなてんの由来)その後里人たちは御劔を拾い上げ、味耜高彦根神がお祀りされている当地に合祀してきたが、天武天皇の時代に飛鳥浄見原宮に遷され、さらに後の朱鳥元年(六八六)六月熱田神宮に返還された。
放出の地名由来について触れた際にも、草薙剣の説を挙げましたが、この話は当社の由来にも関係しており、現在も熱田神宮の例祭には当社の宮司が参列し、当社の祭礼の際にも熱田神宮からの参列があるそうです。
三種の神器の一つである草薙剣は初め天叢雲剣と呼ばれ、神話において出雲国で素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した際、大蛇の体内から発見されています。素戔嗚尊はそれを天照大神に捧げ、天孫降臨の際天照大神はさらにそれを瓊瓊杵尊に託し、地上に降りました。草薙剣と呼ばれるようになったのは、日本武尊による東征伝承によります。伊勢の倭姫から剣を託された日本武尊は焼津でだまし討ちにあった際、剣で草を薙ぎ払い、火を放って難を逃れたということで、それにちなんで草薙剣と呼ばれるようになったのは周知の通りです。日本武尊の死後も草薙剣は伊勢に戻されることなく、日本武尊の妻・宮簀媛と出身の尾張氏が熱田の地で護り続けてきたということで、これが熱田神宮の起源ですが、この神剣が天智天皇が即位した年に盗まれたというのです。これは尾張にあった神剣を朝廷側に戻すために仕組まれたことではないかという説もあります。いまそれに深く立ち入りませんが、草薙剣は朝廷側と尾張氏側の力の駆け引きを暗に伝えているのかもしれません。
当社に配祀されている八劔大神は草薙御神劔御神霊とされているように、日本武尊に関係がありそうですが、草薙剣は元は天叢雲剣だったことを思うと、むしろ素戔嗚尊との関係に目を向けたくなります。つまり配祀されている八劔大神は草薙御神劔御神霊というよりむしろ天叢雲剣御神霊、すなわち素戔嗚尊ではなかったかということです。
『出雲国風土記』の三澤郷の由来に、阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこ)は、御須髭が八握に伸びるほど育っても未だに昼夜問わず泣いており、言葉が通じなかった、とあります。これは母の国に行きたいと泣き叫んだと伝わる素戔嗚尊に似ています。両者がイコールということではなく、共通する伝承に基づくのではないかと推測します。
つまりここには古代における出雲族の足跡が残されているということではないでしょうか。
ちなみに当社から西に一、八キロほどの線路沿いの城東区にも八劔神社があります。室町時代の創建と伝わり、八劔大明神、武速須佐雄大神、罔象女大神をお祀りしています。創建に際し、次のような話が伝わっています。
ある日村人の夢枕に老翁が現れ、我は熱田の神でこの地におさまりたいので川辺に来るようにと告げられます。同様の夢を他の住民も見たことから、皆で淀川に赴くと、小さな蛇が現れ上陸し当地に留まったことから、そこに祠を建ててお祀りした、というものです。
興味を惹かれるのは、夢告では熱田の神と言っているのに、八劔大明神を須佐之男としてお祀りしていることです。先ほど阿遅速雄神社で配祀されている八劔大神が天叢雲剣御神霊、すなわち素戔嗚尊ではなかったかと推測したことを補強してくれるような話です。
古代の大阪は現在とは全く異なった姿をしていました。河内湾が河内湖になり、三角州が生まれ、平野が出来ていったその地形の歩みを現在の地図に重ねながら歩いていくと、玄関口として多くの人が残した足跡が見えてくるようで、興味は尽きません。