昨年訪れた泉北丘陵にある多治速比売神社で宮司さんに本殿を見せていただいたところ、檜皮葺の屋根の美しさもさることながら、それを支える社殿の各所に施された装飾が実に華麗で、簡素で鄙びた社殿を見慣れた目に強い印象を残しました。その際宮司さんが同様の華やかな本殿を持つ神社として、富田林市の錦織神社や和泉市の聖神社のことを教えてくださり、いつか訪れたいと思っていたところ、東高野街道歩きの中でようやくその一つ錦織神社にお詣りする機会が巡ってきました。
錦織神社の錦織は「にしこおり」「にしごり」などと呼ばれます。鳥居脇に立つ富田林市の説明表示では「にしこおり(にしごり)」となっていますので、ここでも「にしこおりじんじゃ」と読むことにしますが、それは古代の当地の地名に由来します。
神社が鎮座しているのは大和川の支流石川に近い羽曳野丘陵の南端、富田林市宮甲田町で、前回投稿した美具久留御魂神社から三キロほど南になります。このあたりは『和名類聚抄』巻第五の河内国のところに「錦部 爾之古里」とあるように、古代河内国の錦部郡だったところです。錦部郡の百済郷には錦を織る技術者である百済系の渡来人が居住し、朝廷に綾錦織を献上していました。錦織神社はそうした錦織部の氏神として信仰されてきたのでしょう。古くは爾吾里天王とか水郡天王宮などと呼ばれていたようです。水郡というのは「にごり」という音からの当て字だと思いますが、当地も石川による谷地形にあって当地に水が集まる土地で、千早赤阪村の建水分神社、美具久留御魂神社と共に河内の三水分神社と呼ばれていたように、当社も水とゆかりの深い神社です。
神社にある表示では、現在の社殿が室町時代の正平十八年(一三六三)に足利二代将軍義詮の命により三善貞行が普請奉行となって再建されたことから、そこを創建時期としています。昭和十年に本殿を修理した際地中から出土した瓦の中に平安時代中頃のものがあったことから、創建はそれ以前と推定されますが、錦織部の氏神をお祀りすることに由来するなら実際にはもっと遡るはずです。
ちなみに再建を進めた三善氏は平安時代の初めに『新撰姓氏録』で「錦部連。三善宿禰と同祖」とあるように錦部連の一族で、彼らの多くは清和天皇の時代に平安京に住まいを移しますが、当地に残った人たちは地方武士団として活躍したようです。
一直線に延びる長い参道。百五十メートルほどあるようで、かつてここて流鏑馬が行われたとか。
参道の先に瓦葺きの建物が見えてきます。これは中央を通り抜けることのできる割拝殿です。関西では時々見かけますが、そう多くはありません。
華麗な本殿はその奥にあります。
主祭神は建速素戔嗚尊、本殿向かって右に品陀別命、左に菅原道真公がお祀りされています。品陀別命つまり応神天皇は、おそらく室町時代に三善氏によって再建され武将たちから崇敬されるようになった時代にお祀りされたのでしょう。本殿前にある石の表示には、本殿の御祭神に加え摂社と末社でお祀りしている神々の御名前が刻まれていますが、ここに至る前、拝殿前にある別の表示には「天照皇大神、伊戔円尊、倉稲魂神、天水分神、高龗神を配祀する」とあり、こちらに当社の本来の信仰が伝えられているように思えます。つまり天水分神は美具久留御魂神社でもお祀りされている水を司る神様ですし、高龗神も高は山、龗は水を司る龍神のことなのでこちらも水に関係する神様です。倉稲魂神は穀物の神様です。
こうした神々が現在のような華麗な本殿にお祀りされるようになったのは、社殿が再建された室町時代以降のことですから、本来の姿はもっと違ったものだったかもしれませんが、それは今となっては知るよしもありません。それはともかく、現在に伝わる朱色の華やかな本殿は、その両脇にある摂社と共に国の重要文化財に指定されています。
単層入母屋造りで檜皮葺、桁行三間、梁間二間。軒下の組み物や柱、垂木に華やかな装飾が施されており、極彩色に圧倒されます。
屋根の写真がうまく撮れませんでしたが、本殿正面の向拝に唐破風、その上に千鳥破風という様式は室町時代の神社建築では珍しいとのことで、この複雑な屋根の様式は錦織造りと呼ばれ、後の時代各地の神社で用いられました。その代表が日光の東照宮です。
一見すると派手ですが、一歩引いて見ると、凝縮した美を感じます。
こちらは本殿向かって左にお祀りされている摂社の天神社。火産霊神、大国主神、恵比須神がお祀りされています。
こちらは本殿向かって右にお祀りされている摂社の春日社。熊野速玉神、春日大明神がお祀りされています。
冬晴れの空の下、社殿の色が一層鮮やかに映じ、古代この土地で作られたという錦に思いを馳せました。