十月の声を聞くとそわそわします。というのも、十月は丹波の名産黒豆が完全に生育する前の、鞘豆の収穫時期なのです。去年偶然十月に丹波を訪れた際、各地で収穫したばかりの黒枝豆の葉や枝を落とし、その場で販売しているところに行き合わせました。試しに買って帰ったところ、お豆の粒が大きく歯ごたえもあり、しかも甘みも強いその味にすっかり魅せられてしまい、今年は黒枝豆を目的に丹波まで足を延ばすことにしました。所用が一段落してから行ったので中旬を少し過ぎた時期でしたが、甘みが増してくるのは中旬以降ですのでちょうどよいタイミングでした。ちなみに今年は収穫したばかりの葉がついたままのものを車のトランク一杯に積み込んできて、ベランダで枝から鞘を切り離す作業をしました。それなりに手間がかかりますが、その分だけおいしさ(いとおしさ?)が増したような気もしました。11月になると完全な黒大豆になりますので、その直前ひと月だけの楽しみです。
さて、黒枝豆を買うために向かった丹波でしたが、近くに丹波地方最大の前方後円墳があると知れば行かないわけにはまいりません。場所は篠山盆地の東端、丹波篠山市東本荘で、西に流れる篠山川右岸の高位段丘上に前方部を東に向けて築かれています。大きさは墳長約一四〇メートル、後円部の直径約八十メートル、高さ約十三メートル、前方部の幅約九十メートルで、現在墳丘は二段ですが元は三段だったようで墳長も約一五八メートルだったと推定されるそうです。ちなみに兵庫県にある最大の前方後円墳は神戸市の五色塚古墳で、その墳長は一九四メートルですので、雲部車塚古墳は兵庫県においてそれに次ぐ大きさということになります。
上は西の後円部。
こちらは東側の前方部。冒頭の写真は古墳を北西から見たものです。
雲部車塚古墳は村有地にあり長い間未盗掘だった古墳です。丹波篠山出身の考古学者八木奘三郎氏が帰郷した際にここを視察し、これは二千年前の皇族の墓ではないかと言ったことがきっかけとなり、明治二十九年(一八九六)に村人たちが中心となって試掘したところ、石室や石棺、刀剣、鎧などが見つかり、明治三十三年(一九〇〇)に陵墓参考地に治定されました。陵墓参考地というと通常学術的な立ち入り調査はなされませんが、ここは先に村人たちによって試掘され遺物が発見されたことから陵墓参考地に治定されたという経緯を辿っていますので、内部の様子や副葬品などの様子がある程度わかっています。副葬品の多くは埋め戻されましたが、一部が現在京都大学総合博物館で保管され、兵庫県立考古博物館では埋葬施設が再現展示されています。博物館の説明によると、朱に塗られた石積みの中央に長持形石棺が置かれ、鎧、兜、刀、剣といった大量の武器が石積みに掛けられていた点と、槍のような矛が柄の部分も含めてすべて鉄で出来ている点が全国でも例がないそうです。
車塚と呼ばれるのは、前方後円墳のくびれ部分の両側に陪塚があり、それが車の車輪のように見えることからそう呼ばれるようになったとのこと。上は北側の陪塚。下は道路を挟んで南側にある陪塚です。
副葬品などから古墳時代中期、五世紀中頃の築造と推定されるとのことで、被葬者は誰なのかということに関心が向かざるを得ませんが、現段階では特定に至っていません。試掘の際発見された石室は竪穴式で後円部のやや南寄りにあったことから、埋葬施設が複数あった可能性も指摘されているようですし、石室に掛けられていた多数の武具や、長持形石棺が大王墓のものに似ていることなどから、ヤマト大王家と繋がりのある人物ということは言えそうです。第九代開化天皇の皇孫で四道将軍の一人として丹波に派遣されたと記紀に伝わる丹波道主命をあてる説もありましたが、時代が合いません。
雲部車塚古墳に先立ち丹波国に築かれた古墳というと蛭子山古墳(与謝郡与謝野町)や網野銚子山古墳(京丹後市)、神明山古墳(京丹後市)の日本海三大古墳が知られます。いずれも大型の前方後円墳で、中でも網野銚子山古墳は大和国の佐紀陵山古墳と似通っていることから結びつきが指摘されていますが、五世紀に入ると現在の丹後半島を中心に築かれた古墳の新たな築造が見られなくなります。代わって篠山盆地に雲部車塚古墳が築かれたということは、新たな勢力がここに生まれたということを伝えているのでしょうか。
雲部車塚古墳が築かれた場所は、篠山盆地の東端で、亀岡盆地に通じる交通の要衝でした。現在は交通が便利とはいえない静かな田園風景の中にありますが、この古墳の存在によって五世紀の当地の重要性がわかります。