心に留まった風景

蘆花浅水荘(記恩寺)

 

新緑が美しい季節になると、琵琶湖の色も鮮やかさを増します。上は大津湖岸のなぎさ公園からの眺めです。近江大橋左の緑は膳所ぜぜ城跡につくられた膳所城跡公園、その奥には比叡山から比良山に連なる山並も見えます。この鮮やかな青の風景は見飽きることがありません。

ここからほど近い大津市中庄の湖岸道路沿いに、近代京都画壇を代表する日本画家山元春挙が建てた別荘「蘆花浅水荘ろかせんすいそう」があります。

 

明治四年(一八七二)現在の大津市中庄付近の膳所町に生まれた山元春挙は、十二、三歳のときに京都四条派の野村文挙に師事し絵の道に入ります。その後文挙が上京したため、文挙の師である森寛斎の元で研鑽を積み、明治二十四年(一八九一)竹内栖鳳らと青年絵画懇親会を結成、四十年(一九〇七)には栖鳳と共に新規に開設された文展の審査員に、大正六年(一九一七)には帝室技芸員に任命されるなど、京都画壇における両雄として竹内栖鳳と並び称されました。

生地に近い琵琶湖畔に別荘用の土地を購入したのは大正三年(一九一四)、日本画家として勢いに乗っていた時です。春挙はそこに立地を活かした洗練された別荘を自ら設計しました。現在この別荘は湖岸から百メートルほど入ったところにありますが、当時は湖岸道路もなく直接琵琶湖に面していました。かつて琵琶湖だった辺りから別荘を見たのが冒頭の写真で、逆にいえば別荘からはこの位の距離に琵琶湖が見えたことになり、見事な借景庭園だったことがうかがえます。現在庭に残っている石段がかつての湖岸で、階段は船着き場跡です。ここで船を下り、松の生える築山を見ながら主は主屋へ向かい、客人は茶室に招じ入れられたのですから、なんと風雅なことでしょう。

 

蘆花浅水荘とは、唐の詩人・司空曙しくうしょが詠じた次の「江村即時」に由来します。

罷釣帰来不繋船
江村月落正堪眠
縦然一夜風吹去
只在蘆花浅水辺

釣をめ帰り来りて船を繋がず
江村こうそん月落ちて正に眠るに堪えたり
縦然たとい一夜風吹き去るとも
だ蘆花浅水のへんに在らん

ここに詠まれた江村の浅瀬に蘆の花が咲く光景は、琵琶湖畔膳所にも通じるところがあります。春挙も司空曙のように湖畔で心静かな時間を持ちたかったのかもしれません。

 

 

庭の話になったので、先に庭を巡ってみましょう。表門から中門、枝折戸しおりどを経て庭に入ると

 

屋根付きの渡り廊下が奥へと続いています。(下は来た道を振り返ったところ)

 

渡り廊下の先にあるのが、冒頭の写真の左に見える茅葺きの建物です。これは両親と師の森寛斎への恩を記すために建てた持仏堂で、記恩堂と名付けられています。

御本尊は釈迦牟尼仏、額は臨済宗の禅僧竹田黙雷によります。

 

上は冒頭の写真にも見える離れの建物。庭の正面を望むように仏間や書院が配され、東北隅には庭に突き出るように茶席「莎香亭」があります。

 

 

最近北側にマンションが建ち、記恩堂の後ろ(南)にも建物があり…で、南北方向の景観が遮られたのは残念です。かろうじて背後(西)の景観だけ守られています。

 

 

庭の北には離れの茶室「穂露」。そこから西に回り込むと、書院西、竹の間にある印象的な円窓が目に飛び込んできます。室内の様子はまた後ほど。

庭の各所に灯籠や手水鉢、台石といった石造物が置かれています。中には膳所城や旧東海道などで使われていたものもあり、膳所の歴史的な遺産がここに集まってきたような印象を受けます。

 

 

ざっと庭を巡ったところで、今度は表門に戻り建物内へ。

表門をくぐった正面にある二階建ての建物が本屋ほんおくで、二階部分には洋風の応接間やアトリエがありますが、まずは一階部分から。

 

こちらが先ほど庭から眺めた離れにある数寄屋造りの書院です。床は二畳の上段床で床柱がなく、床框は絞り丸太が用いられています。

波打つガラス窓を通し、庭の緑が室内に明るさをもたらしています。ここから琵琶湖はもちろん、対岸にある三上山(近江富士)も見えたのですから、これ以上の借景はありません。

 

書院や仏間の周りには一間幅の畳廊下が巡らされています。上を見ると見事な船底天井になっていて、とくに庭に面した廊下には十メートル近くある真っ直ぐな北山杉が使われているのには目を瞠ります。このような木は現在は手に入らないそうです。

書院や仏間などでは襖の引き手の意匠も眼を楽しませてくれます。書院の引き手は満月、仏間は上弦・下弦の月、その隣の残月三日月になっていて、春挙の遊び心が感じられます。

書院の北隣には円窓棚がお洒落な「莎香亭」。戸袋や襖の唐紙は春挙がデザインした松の唐紙で、引き手は千鳥。松林を千鳥が自由に飛び回っているようで、これもまた洒落ています。ちなみに松の唐紙は春挙松と呼ばれ今でも人気なのだそうです。

 

この部屋の隣には「無尽蔵」と呼ばれる一畳ほどの小部屋があります。

春挙はこの薄暗い小さな部屋で画の構想を練ったのだとか。

書院の北西には竹の間があります。その名の通り、至るところに竹が用いられています。

 

竹の間の円窓が、先ほど庭から見えたもので、室内からですとこのような感じになります。

円窓から、無尽蔵、莎香亭の窓を通して庭を見ることができるそうです。もちろん春挙の時代は琵琶湖も。仲秋の名月が上る様子もここから見ることができたというのですから、なんと風流なことでしょう。至るところに春挙の遊び心やセンスが感じられます。

最後に二階にある画室へ。

山元春挙は、円山派の伝統の上に西洋絵画の写実性を取り入れ、壮大で力強い画風を確立しました。当時はまだ高価だったカメラを手に取材を行い、スケッチと写真を組み合わせて構図を考えるという、当時としては珍しい手法を取り入れたことが、春挙ならではの画風の確立に一役買ったのでしょう。大画面に描かれた風景画は見る者を圧倒しますが、とくに眼が行くのが透明で吸い込まれそうな鮮やかな青です。春挙ブルーと呼ばれるその青はどのようにして生み出されたのか、今なお解明されていないそうです。画室の隅には春挙がここで制作していた当時のまま、岩絵の具のケースが置かれています。ここで眼に付くのも青。春挙の青に対するこだわりが感じられます。

 

帝室技芸員だった頃には、駐日フランス大使ポール・クローデルが蘆花浅水荘を訪れたこともありますし、大正十五年(一九二六)にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されるなど、評価は国内に留まりませんでした。そうした中、昭和三年(一九二八)五十六歳の春挙は川合玉堂と共に昭和天皇大嘗祭に用いる悠紀主基ゆきすき地方風俗歌屏風の制作を命じられ、春挙は主基地方を担当することになりましたが、全身全霊で制作に取り組んでいる最中に倒れ、一時は回復したものの、昭和八年六十一歳で帰らぬ人となりました。春挙がもっと長生きしていたら、その画風はどうなっていたのだろうか、その名声は今とは違った形になっていたのではないかと思わずにはいられません。

蘆花浅水荘は至るところに春挙のセンスが散りばめられ、華美ではないけれどとても贅沢で粋な邸宅です。きっとそれは春挙の人柄にも通じるのでしょう。

 

*大正時代の別荘の形態をよく残し、数寄屋造りを基調とした建物は技術的にも意匠的にも価値が高いとして、平成六年に表門、本屋、離れ、渡り廊下、持仏堂、土蔵が国の重要文化財に指定されています。

*拝観には予約が必要です。

 

 

 

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