西山連峰から南に延びる丘陵を向日丘陵とか長岡丘陵と言います。その丘陵南端にあるのが元稲荷古墳ですが、この辺りは古墳地帯といってもよいほど多くの古墳が築かれました。元稲荷古墳から北に五百メートルほどのところには、五塚原古墳があります。さらにその北には妙見山古墳、そのまた北には寺戸大塚古墳といった具合で、消滅した古墳も含めると向日丘陵だけでもかなりの数になります。今回取り上げる元稲荷古墳と五塚原古墳は古墳時代初期、出現期に造られた古墳で、向日丘陵の古墳群の中でも最古に属します。この二つの古墳の規模(墳長)はほぼ同じで、異なるのは元稲荷古墳が前方後方墳、五塚原古墳が前方後円墳という点です。
まずは元稲荷古墳から。元稲荷古墳は、向日神社境内の北東に隣接する勝山公園内にあります。
元稲荷古墳は墳丘長が約九十四メートルの当地域最古の大型の前方後方墳で、乙訓古墳群の一つとして国の史跡に指定されています。元稲荷古墳という名前は、かつて後方部に稲荷神社がお祀りされていたことに由来するもので、現在稲荷神社は元の場所から南東におよそ百メートル、向日神社参道の北側に遷っています。(下の写真がそれで、赤い鳥居の方が奥宮です。)
元稲荷古墳が最初に調査されたのは大正時代のことで、当時は前方後円墳と考えられていましたが、高度成長期の人口増加に伴い昭和三十五年に古墳後方部に配水池が造られることになり、後方部の本格的な調査が行われた結果、この古墳が前方後方墳で、後方部に竪穴式石槨が設けられていたことがわかりました。石槨は全長五、六メートル、幅が一~一、三メートル、高さが一、九メートルという規模で、石槨を構成する石の多くは近隣の頁岩や粘板岩ですが、天井の一部には兵庫県の猪名川流域の石英斑岩が使われていたそうです。
調査時点で古墳内部は既に盗掘されていたものの、銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄槍などの武器類、鉄製鋤・鍬先、鉄斧、鉄鑿、刺突具などの農工漁労具類、壺形土器、特殊器台形埴輪の細片などが出土し、畿内最古に属する重要な古墳であることから、当時の向日町が古墳全体を買い上げ、前方部を勝山公園として整備し現在に至っています。
現在前方部には階段が設けられ上にはいくつかベンチが置かれています。初めてここを訪れた時は桜の時期で、何人かの人がお弁当を食べながらお花見を楽しんでいました。
上の写真が前方部です。現在は土が剥き出しの状態ですが、本来は前方部は二段になっており、表面には石が葺かれていました。
ベンチの先、北方向に眼を向けると、高く繁った木立の隙間から建造物がのぞいていますので、さらに奥に進んでみます。
後方部は前方部より高くなっていて、後方部頂上に通じる階段があります。上っていくとそこには配水池の施設。この様子から、現在は使われていないのではないかと思われます。竪穴式石槨が発見されたのは、この下ということになります。
現在の元稲荷古墳はこのような感じで、公園に取り込まれているということもあって一見すると普通の築山のように見えますが、調査報告書や研究者の方たちの論文などに眼を通すと、古墳時代の初期に王権との関わりだけでなく、遠隔地の特に西側各地域との密接な交流を持ちながら当地を治めていた首長の姿が浮かび上がってきて、大変興味を惹かれます。
西側との交流をうかがわせる遺跡の最たるものは、前方部から出土した壺形埴輪や都月型と呼ばれる特殊器台形埴輪です。特殊器台形埴輪というのは、弥生時代後期に吉備地方で生まれた装飾を施した円筒型の土器で、都月型というのは岡山県の都月坂古墳から出土したことに由来し、弥生時代から古墳時代にかけての標識土器となっています。都月型の器台や壺の存在は、吉備地方のとくに旭川流域の勢力との繋がりをうかがわせるとのことですが、土は地元のもののようですから、都月型の技術を持った人が当地にやってきて制作したということなのでしょうか。下が出土した壺形埴輪と特殊器台形埴輪です(現在は京都大学総合博物館に展示されています)。写真は『畿内乙訓古墳群を読み解く』(雄山閣)から撮らせていただきました。
先の本の中で、国立文化財機構奈良文化財研究所の廣瀬覚氏が、都月型の器台・壺の伝播元と考えられる旭川流域の古墳も前方後方墳であったというのは単なる偶然ではないのではないかということを書かれていますが、前方後方墳についての箇所が印象的でした。私なりの理解で簡単にまとめると次のようなことです。古墳には円形と方形があります。古墳時代中期に古墳の政治的な階層秩序が整うと、円形が優位になり、かつ古墳が巨大化していきますが、出雲地方では古墳時代の全時代を通じて方形の古墳が築かれてきたように、出雲地方は弥生時代の終わり頃から葬送儀礼において方形に何か特別の思想を抱いていたようです。それが出雲と密接な関係にあった吉備地方に伝播し、さらにそれが瀬戸内海から大阪湾を通じ近畿西部にも伝わっていった可能性を述べられています。広範囲に及ぶ古代の葬送思想が伝播していった、その形跡の上に立っているのかと思うと感慨深いものがあります。
元稲荷古墳後方部の斜面を取り巻く坂道を下り、北に五百メートルほどのところにある五塚原古墳へ向かいます。
五塚原古墳へは、古墳南西にある公園や、古墳東にある池から散策路を通じて立ち入ることができるようですが、あいにく封鎖されていました。台風被害の影響とか。
実際に見ることができたのはここまでですが、初めにも触れたように五塚原古墳は古墳時代初期の前方後円墳で、墳丘が良好な状態で残っている貴重な古墳です。墳長は約九十一、二メートルで、後円部の直径が約五十五メートル、前方部の長さが約四十、五メートルあり、後円部が三段、前方部が二段になっていて、前方部はバチの形をしています。元稲荷古墳は一段目が段丘を削り出して造られていたのに対し、五塚原古墳はすべて盛り土によって造られています。昭和四十年代に最初の調査が行われて以来今日に至るまで場所を変えて何度も調査が行われてきましたが、二〇一九年に後円部から竪穴式の石室が、またその周辺から土師器の破片が見つかったことで、五塚原古墳の実態により近づくことができるようになりました。竪穴式の石室は地元の河原の石を垂直に積み上げ、上に天井石を載せて塞いだ形をしており、古墳時代初期の前方後円墳で自然石だけで造られた石室が見つかったのは珍しいそうです。年代を確定するのに大切な物証として土師器の破片が見つかったのも大きなことでした。その破片というのは二重口縁壺で祭祀に用いられたもののようですが、これを炭素年代表で調べたところ、二四〇から六〇年頃のものとわかったそうで、それにより五塚原古墳築造されたのは三世紀半ばだろうと、それまでの考えより少し早い時期が想定されるようになりました。
その時代、つまり古墳時代初期の出現期に造られた前方後円墳で群を抜いた規模を誇るのは奈良県にある箸墓古墳ですが、規模こそ大きな差はあるものの、五塚原古墳と箸墓古墳は形状に共通する点があるのだそうです。それに加えて、先の調査で年代もほぼ同じであることがわかりました。箸墓古墳は卑弥呼の墓であるという説もあるように、古墳出現期における大王墓と考えられます。五塚原古墳王権はそのミニチュア版のような古墳なので、被葬者も大王を支えた人物だったのではないかとのことです。今後も調査が行われるでしょうから、さらにいろいろなことがわかってくるかもしれません。
今回取り上げた元稲荷古墳と五塚原古墳は、淀川水系の小畑川に沿った丘陵に築かれています。つまり古代ここは交通の要衝でした。古墳は当時の勢力図や人の動きばかりか思想までも今に伝えてくれるもので、興味は尽きません。向日丘陵周辺には、他にも多くの古墳があります。乙訓古墳群と呼ばれるその一帯を、また機会を改めて歩いてみたいと思っています。